「友達の彼氏」

これ、サトリちゃんの名言なんだけど。
「友達のご贔屓、イコール友達の彼氏みたいなもので、すごーく気になっちゃう」ってこと。
うん、それよーく解る。舞台に出ている「友達の彼氏」って、なんだか一生懸命観てしまうよね。
そして、青年館では「私の彼氏」が主演中なの、ふっ。
て、イタい。言ってることがかなーりイタいぞ、自分。まあ、それくらいの気持ちだというお話。

3日目。「私の彼氏」(だからイタいってば)を観に、ドリーさんとkineさんが青年館にやってきた。
今回の公演は4日間7公演。そして私は全7公演のチケットを握りしめ、朝から晩まで青年館。つまり、「私の彼氏」(だからイタいってば)を観る友達とは、漏れなくお会いできるというわけだ。

幕間。何も言われもしないうちに、つい、先に喋りだす私。
「スコット、苦悩……してる?して……してない、足りないよねえ」

私は、1幕のスコットも、すばらしいと思っている。
美しく輝けるものが、傷つき曇っていく。そのせつなさもやるせなさも、タニならではの色で表現されている。この1幕のスコットは、タニにしか出せない。
それでも、すごーく冷静に「演技力」という評価のしかたをしたとき。少し弱いというふうに捉える人もいるんじゃないかっていう懸念も、やっぱりある。
じゃあ、友達から指摘される前に言ってしまえ、みたいな(笑)。

仮にそうだとしても、大和悠河のスコット・フィッツジェラルドが、2幕の『Life』(リプライズ)で観客の心を捉えることは確信しているから。これは絶対だから。
幕間に軽口を叩いてみても、実は心の中で「私の彼氏」(だからイタいってば)に自信満々なわけだ。
『Life』(リプライズ)を歌う彼は、壮絶なまでに強く、美しく、輝いている。

大和悠河は、本当に不思議な人だと思う。
あまりにもきらきらと輝きすぎて、ともすれば「苦悩」すら、その輝きの前で見えにくくもあるかのようで。
『Life』(リプライズ)を、ただ輝いているだけの人に終わらせないのだから。
1幕とはまったく違う『Life』。
スコットが見つけた、自分の『Life』。

先天的な輝き。それしか持っていない人なら、そこが出せないはずだ。
でも、違う。
「苦悩が苦悩に見えにくい」「あがきがあがきに見えにくい」と書いてしまったけれど、それでもそんなことは無問題だと言いきれるのは、それがあるからなのだ。

傷つき、ずたずたになって何もかも失い、いや、失ったかのような中で、「再起」するスコット。彼が歌う『Life』。
それは、目の前に希望だけが広がり、あらゆるものが手に入ると信じて『Life』を歌っていた、かつての若く美しいスコットではない。
スコットの経た、破滅と苦悩。流した涙。

押し潰され、壊れそうな、あなたの魂の声が聞こえる。

彼は知った。

誰もが苦しみ、傷つき、それでも人は生きていく。
生きていかなければならない。

スコットが闇の中で見出した、一筋の光。
どんなに苦しくとも、今はかすかであろうとも、その光の中には確かな喜びがある。

ふたたび希望にうち震える、あなたの魂の声が聞こえる。

それらすべてが、聞こえてくるのだ。

絶望を越えた人間の持つ、真の美しさと強さ。その輝き。
『Life』(リプライズ)で絶唱する大和悠河の輝きは、再起するスコット・フィッツジェラルドまさにそのものの姿となって、私達の心を揺さぶる。

泣くよねーーー。もう、号泣するしかないでしょ。

タニの歌。
お歌がどうとか言われちゃう人なのは、充分解っている。
でも。この魂をあらわすことができるなら、もうそれでいいんだと思う。
譜面どおりに歌える人は、他にもたくさんいるけれど。
タニの絶唱は、観ている私達の心に確実に届く。芝居の歌に必要なもの、それはその魂だから。
私は、大和悠河の歌を、全面肯定する。

もしかしたら。
苦しんでいたのは、タニかもしれない。
あまりにもきらきらと輝きすぎて、ともすれば「苦悩」すら、その輝きの前で見えにくくもあるかのようで。
そんな大和悠河に苦しんで、何かを掴もうと必死にあがいていたのは、タニ自身なのかもしれない。
下級生の頃からきらきらで、今も輝きは少しもくすみはしない。
変わらないその美しさ、それを私達は簡単に「魔法のようだ」なんて言ってしまうけれど、現実に魔法なんて誰も使えはしない。

誰もが苦しみ、傷つき、それでも人は生きていく。
生きていかなければならない。
自分の足で一歩ずつ、歩かねばならない。

スコットだって、タニだって、ひとりの人間でしかない。
魔法を保っているかのような裏側で、タニはおそらく気の遠くなるような努力をしているに違いない。
そして、世間が求めるアイドル「タニちゃん」と、自分の中の理想の男役像のギャップを埋めるべく続く果てなき暴走。いや、暴走という名の果てなき努力。
苦しみ、あがき、そして今。
大和悠河は何かを掴んだのかもしれない。
そのタニの輝きがスコットとなり、スコットの魂がタニとなって、今舞台の上に存在している。


それでもね。
タニがハンパじゃなくすごいのは、「いや、待てよ?実はこの人、やっぱ何も解ってないで演ってるんじゃないか」って、なお、そう思わせちゃうところ(笑)。

神。

人間じゃないのよ、タニは神なのよっ。
だから、何も解ってないまま、輝きを失うことなくピタっと2幕の『Life』で、すべて持っていけちゃうんじゃないの?

今まで。
大和悠河は、神に選ばれし人だと思っていた。

違う。
大和悠河こそ、神そのものなのだ。

真顔でそう思ったりもしちゃう。イタい、かなーりイタいけどっ。

それくらい、大和悠河のスコット・フィッツジェラルドは、自然に舞台に息づいている。
そして強く、美しい。

この世のなにものよりも、強く、美しい。


でも、時は永遠ではない。
明日はスコット・フィッツジェラルドとお別れしなければならない。
舞台の上にしかいない、幻の人。

千秋楽の幕が下りるとき、彼は私の前から姿を消してしまうのだ。

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