ゼルダって哀しい、哀しいと言ってしまったけど、彼女は最後に救われた筈だ。

結婚したばかりの頃、『ロマンス』。幸せの絶頂にいたふたり。
だがスコットは、ゼルダという人間を本当に解って愛していたのだろうか。
「あなただけよ、スコット。私のすべてを解って愛してくれるのは、この世界であなただけ」
ゼルダは、そう信じていた。でもスコットは。
なにも解ってなどいない。
美しい宝物を手にして、きらきらと目を輝かせている子ども。手に入れたそのことだけにうっとりしているような、自分勝手な愛。
スコット@タニって、それだけみたいに見えませんか?
だから、思い通りにいかないと、彼女の存在が邪魔になっていらいらする。
美しいだけで自分を喜ばせてくれる宝物。そのままでいてくれればよかったのに。

「ゼルダがどうしようもないことは解っている。だが、それがたまらない魅力でもある」
「自分の姿を鏡に映して、嫌な部分だけが映る魔法の鏡があったとしたら、人間それを叩き割りたくなるだろう?ゼルダと暮らしてゆくってことは、そういうことだ」
台詞にはそうあるのだが、そんな破滅的な愛も、あまり感じられなかった。
あくまでも私が、あくまでもスコット@タニからは、だけど。
そんなキリキリした痛い思いねぇ、うーん。えええ??

それでも。
スコットがこの世を去るとき、ゼルダの写真を抱きしめる。

ここで、すべて辻褄が合っちゃう。持っていくんですよ、大和悠河は。
この瞬間に、怒涛の愛が溢れだす。生涯を賭した愛。至上の笑顔と、目もくらむ発光。
愛と感謝と。ありったけの思いをこめてゼルダに捧げられる、一輪の薔薇。

この薔薇で、まるっと話を収めちゃう。

スコットはゼルダの元へ飛んでいったんだよね。
笑顔と薔薇をゼルダに捧げて、そして彼はもっと遠い世界へ逝ってしまうのだけど。
彼は最後に、ゼルダの前に姿を見せた。美しい笑顔で、愛を伝えた。その愛と感謝は、彼女に伝わった。
だから、ゼルダは救われたんだ。幸せだったんだ。
そして幕が下りる瞬間に、ふたりは微笑みあう。
あなたを愛して、あなたを愛せて、幸せだったって。

大和悠河の芝居って、そりゃあリアルとか精緻とかいう言葉とは離れているかもしれないけれど、それだけの夢を見させてくれる。そういう遊びがある。
大和悠河その人が、ファンタジーだから。彼こそが、ファンタジーだから。

神ですってば、マジで。
るいちゃん、ごめんなさいごめんなさいごめんなさいっ。

「……ゼルダって哀しいね」
私がこうつぶやくと、ドリーさんはぎょっとした顔をして聞き返してきた。
「当たり前でしょ、いったいいつ気がついたっていうんですか?」
「えーと……今の回」
ドリーさんが『THE LAST PARTY』を観たのは初日の2日後、4公演目のときだ。
怒られましたって。
「今まで何観てたんですかっ!」
「えーと……スコット」
呆れかえった視線を私に向け、ドリーさんはこう付け加えた。
「まさかと思いますけど。ゼルダが出ていたことぐらいは、知ってましたよね?」
もお、それぐらい分かってましたってば。
とにかく初日から頭のなかがスコット、スコットで、他のことに気が回るのが遅くなったのよう(大反省)。


アメリカ一のフラッパーガール。フィッツジェラルド夫人。シンデレラ・ゼルダ。
最高の女性と称され、望むものすべてを手に入れた筈のゼルダ。しかし、たどり着いてみると、そこは空っぽの世界だった。

「Who am I?私は誰?私は何?」

恐くてたまらない、何が欲しいか解らない、誰かにつかまえて欲しいのに。
スコットの心は傍にいない。

「私だってできるわ。そう、女優にだってなれる、小説だって」
「もっと、もっと!」

自分の壁と戦い苦しんでいるスコットの横で、ゼルダもまた自分を探して苦しんでいた。
大人になりきれないゼルダが求めていた、スコットの愛。
スコットもまた、ゼルダを愛そうとしていたのだ。しかしスコットは、ゼルダ以上に大人になりきれない子ども。
自分の苦悩に囚われている彼には、ゼルダの哀しみを救うことができない。
そしてゼルダは、どんどん壊れてゆく。

お互いがお互いを愛しているのに、傷つけあうことしかできないふたり。
大人になりきれない、欠けた心を持つ者同士。

「You are me」「I am you」
「あなたと私」「きみと僕」「似た者同士」

幸せの絶頂にいた頃の歌を、今、離れた場所で歌う。ひとつになれない、ふたつの心。
心を蝕まれ、病んでもなおスコットを愛し、彼の幸せを祈るゼルダ。

壊れていくゼルダが、とてつもなく哀しくて。
るいちゃん、ほんっと上手い!フラッパーガールと言われながら、その実は繊細で、それゆえに壊れていくゼルダそのもの。
タニのスコットはまさに大人になりきれない子どもで、ゼルダを救うことなどできはしない。だから余計哀しいの。
病院に入ってからのゼルダが、また哀しくて。それでもスコットを愛している、そして守ろうとする、その思いが痛くて。
号泣しました。なんでこの姿が目に入らなかったんだろ?(首かしげ、そしてふたたび大反省)

私にとって本当の『THE LAST PARTY』は、だから4公演目からかもしれない(遅っ)。


他の出演者たち。
アーネスト・ヘミングウェイ、あひちゃん。
怜悧さと豪胆さ、硬質ないい男。
スコットに冷たいようで、彼を尊敬するからこそ詰らずにはいられない思いが、静かに、だが強く伝わってくる。
タニのスコットが大人になりきれない子どものままで、あひのアーネストが最初からどっしりしていて、その対比が美しい。
そして、これはあひちゃんの持ち味なんだろうけど、豪胆な振る舞いの奥に、繊細さがのぞく。
最後にRYOGAの口から、アーネストが自死したこと、本当に弱かったのは彼だったことが語られたときに、この繊細さが生きてくると思えた。
あと、私はあひちゃんの声が大好きなの。ちょっと癖のある、濡れたような色気のある声。台詞の声もだし、歌なんかゾクゾクする。
「テーマ、ストーリー、登場人物」
あひちゃんの声で言われると、なんかすげーエロいの。歌もかっこよかったなあ。
(そして、月組版初演をご覧になったkineさんの補足、「この台詞、さららんが言ったんだよ」。
この言葉だけでそこにいた全員を爆笑させたさらら氏に、敬愛を捧げます)

マックス、まりえった。
スコットを見出し、見守り続ける編集者。
大人〜!色っぽ〜い!
タニの大人になりきれないスコットを、父親のようにずっと温かく見守る眼差しが優しくて。
そして上手い、なんてったって断トツに上手い。
下級生が多いこの作品を、まりえったの芝居が支えていたと言っても過言ではないだろう。
マックス@まりえったがいてくれてこその、スコット@タニだった。

シーラ、まゆみさん。
スコットの晩年の愛人。
いい女っ!そしてタニのスコットが大人になりきれない子どもだからこそ、余計その包み込む大人の愛が引き立つ。

スコッティ、杏ちゃん。
スコットの娘。
かーわーいいーーー!
タニパパは大人になりきれない子どものくせに、それでも不器用にスコットを守ろうとする。そんなパパが大好きで、甘えて。そしてスコッティもまた、パパを守ろうとする。
もう、この杏ちゃんがすごーく健気で可愛いの。
ふたりの不器用な親子ごっこがいじらしくて。そして痛くて、切ない。

あ、タニファンの間から、「シーラになりたいわあ」って声をよく聞いたんだけど。
ほら、タニファンって案外おねいさまが多いから(笑)。
でも、私は男性に対して保護者のような恋人になるのは絶対に嫌っ。
かと言って、ゼルダも哀しい。そして実は、自分はゼルダ並みに心が脆いと思ってるんだけど(笑)。だから、壊れるまで気づいてもらえないなんて、これも嫌だっ。
スコッティだけなんだよね、結局スコットが不器用ながらも最初から最後まで守ろうとした相手って。

私はスコッティになりたあい!(真顔)
そして、スコット@タニと踊ってくるくる回してもらうのっ(妄想する権利だけは誰にでもあります)。
「パパっ!」「はいっ」(でろでろ〜)(めろめろ〜)

もっと痩せなきゃタニに持ち上げてもらえないわね、っと(さらに真顔で考え込む)。

公園の学生、すず。
スコットに希望のボールをパスする、重要な役。
邪悪な学生。や、嘘。すずなのに(笑)(←パリアをいたぶっていた邪悪なすずの嗤いが頭から離れない人)、さわやかだった。
ただ、スコットより年上に見える学生ってどうよ?(笑)
でも、この学生の言葉がスコットを導くわけだし、タニのスコットは大人になりきれないままの人。すずの学生が子どもっぽくないところが、タニとの対比としていい味になっていたと思う。
これ、ほんとにいい役だなあ。

ローラ、舞良ちゃん。
スコットの秘書。
しっかり者で可愛くて、少し三の線でもあり。こういう役って難しいと思うのだが、ちょっとした間が達者で、客席の空気を和ませてくれた。
「手書きの原稿、読めないんです、先生の字。前はどんな走り書きでも解らないなんてことなかった。先生を休ませてあげてください!」
マックスに訴える、ローラのこの場面が好きでねー。
はい、何回も真似して遊びましたのことよ(いったいどーいう遊びをしてるんだよ自分)。
ローラもまた、スコットの保護者だったんだと思う。
先生を守りたいからこそ離れていくローラの気持ちに、泣かされる。
タニのスコットがまさに大人になりきれない子どもだから、ってもうシツコイからやめとけ(笑)。


や、なんでも「タニのスコットが、タニのスコットが」ってうるさくてすみません。
でもね。
スコット@タニって、本当に欠けている。
何かを掴もうと、大人になろうと、あがき苦しんで。
掴んだかと思いきや、すべてが夢だったかのように忽然と姿を消してしまう。
そう。最期まで大人になりきれないまま、もう私たちが手の届かない世界へ逝ってしまった。
どうしようもなく欠けていて、どうしようもなく魅力的な大和悠河だからこその、どうしようもなく欠けていて、どうしようもなく魅力的なスコット・フィッツジェラルド。
そんな大和悠河が演るスコットの魅力で、周りの人たちの魅力もさらに引き立つわけなんですよ(力説)。それが真ん中の力なんですよ(大力説)。

結論。スコット@大和悠河って、ほんとすげー!(は?)(強引な)(呆)

えーと、るいちゃんへの侘び状が、またもや大和悠河へのラヴレターと化している件について。

アタクシ、タニ担ですがなにか?


タニ友クンちゃんの名言。
「タニちゃんラスパ観なかった人は可哀相ですねー」

ええ、ほんとうに。
残念ながら、映像で大和悠河を解るのは不可能なのよね……あの人のファンタジーは、劇場の空間にこそ息づいているのだから。
映像で解ることは、大和悠河が突出して美しいということぐらい。
その美しさも才能ではあるのだけれど、彼のなかではほんの一部の魅力にしかすぎしかない。
劇場にだけ生きている、その空間にだけ渦巻く、彼の暴走と光。

そこに、本当の大和悠河がある。

劇場で大和悠河と時間を共有したときのみぞ私たちに与えられる、至上の幸福。

みなさん、劇場に行きましょう(にっこり)。
そう。
きっとあなたも、大和悠河にめろめろですわっ(断言)。
ヲタクの定義ってなんだろう。
私は何故か、「『薄い本』を作る才能がある人でなければ、ヲタクとは言えない」と思い込んでいた。だから、ヲタクに敬意こそ抱けど、自分はヲタクではないと信じていた。

最近、気づいたのだが。
どうやら私はヲタクらしい。
いや、薄い本こそ書いたことはないけれど。
「ひとつの物事に異様に入れ込み、熱中する人」をヲタクとするならば、私はヅカヲタ、演劇ヲタとしての道を歩き続けてきたことになる。
私と宝塚の出会いは、小学生のときだ。そこからヲタク歴が始まったとすれば、私は人生の殆どをヲタクとして生きてきたわけだ。
少なくとも中学生の私は、今思えば立派なヅカヲタだった。学校の全員とは言わないが、少なくとも同じクラスになった全員は、私の贔屓の名前を知っていたと思うよ(別にトップさんでも何でもないかただったが)。
常に宝塚への愛と贔屓への愛を、大声で叫んでいたからな。
ヅカファン仲間の同級生はいた。だが、田舎の公立中学校において、私みたいに愛を叫びまくって恥とも思わない奴は珍しがられていたようだ。
そして、ついたあだ名は「レズビアン」。私はレズビアンではないのだが、そう呼ばれることに何の抵抗もなかった。
はい男役好きですが確かに女性ですがなにか?それをレズビアンと言うならどうぞどっちでもいーですがなにか?
みんなが「中学生活の思い出」なんかを書く卒業文集に、何を思ったのか「宝塚の宣伝文」をえんえん書き綴ってみたり。
そんなことはすっかり忘れていたのだが、数年前の引越しでその文集を発見し、流石に赤面した。イタい、かなーりイタいぞ自分。

舞台イコール宝塚と信じていた私が、初めて観た外の舞台は劇団四季だ。中学の終わり頃だったと思う。
それからはいろいろな舞台を観るようになった。ミュージカルが大好きだったし、小劇場に入れ込んだりもしていた。
とにかく、お金と時間の許す限り、劇場に通う生活を続けてきた。
今はほぼヅカオンリーのヅカヲタに戻ってしまったのだが(笑)、宝塚が「いろいろ観る舞台の1カテゴリー」にしかすぎない演劇ヲタの時期もあった。実はそちらのほうが長いかもしれない。

何故、いきなりこんなヲタ歴話をしているのか。
というのは、『THE LAST PARTY』前楽に、高校時代の演劇ヲタ仲間を誘ったもので。
彼女と一緒に、何本の作品を観たことか。
高校の頃は、いつも共に行動していた。劇場へ行くのも、チケット売場に並ぶのも。
私たちの遊び場は、日比谷だった。
勉強はしない、学校はさぼる、親はだます、目的は演劇。悪い子どものような、シブい子どものような?(笑)
彼女の隣で舞台を観るのが、私は好きだ。驚くほど感じかたが似ているんだもの。
興奮冷めやらぬまま語り合う終演後が、本当に楽しかった。
面白いことに、作品への思いは大抵一致するのに、男の趣味がまるで違う(笑)。
私たちの目線の先には、いつも違う人がいた。
まあ、だから喧嘩にならなかったのかもしれないが。あ、別の喧嘩はよくしたけどね。
マックとケンタ、どっちのポテトが美味しいかでお互い譲らず、つかみ合い寸前の大喧嘩になったこともあったなあ。

その頃、私たちは観劇日記をつけていた。正真正銘の「日記帳」に(笑)。
ただ思いのままをだらだらと長文上等、くどくどくどくど書き綴っていた。
あまりにも長文すぎて書く手が追いつかず、いつも過去の日づけの日記を遡って書いていた(やってることは今と変わらん)。
どうやっても追いつかないので、思いあまった私たちは授業中に日記を書くことにした。授業も聞かず、ノートも取らず、ひたすら観劇日記を書き続ける。
読者など他にいない。2人でお互いの日記の読み合わせをするのだ。
イタい。かなーりイタい。薄い本より、よほどイタい。
最近この話を周りにしたとき、kineさんが「なにそれ?1人同人誌?」と仰られたことに衝撃をうけた。そうか、そうだったのか。
その1人同人誌は、その後何年もそれこそ1人で続けていた。ダンボール箱にぎっちり詰めて、封印してあるけど。

ヲタク。だよねえ。

私たちは、いまだに誘い合って舞台を観にいく。
でも、彼女は普段、宝塚は観ない。
「理由は無い、機会がなくて」と本人は言うのだが、私は思うんだ。
『ベルばら』のせいだっ!
彼女が唯一観たことがある宝塚は、『ベルばら』なのだ。
「舞台をよく観るけど、宝塚は観たことないわ」って人に、「あの『ベルばら』なら1回ぐらい観てみようかな」って気持ちが湧いても不思議じゃない。
そして「舞台をよく観る」人に、あの脚本は耐えられないだろマジで。
初心者なら、「宝塚って綺麗ね、華やかね」って思うことはあるかもしれない。
でも、他の舞台を観ている人間には「宝塚最悪!」と思わせるだけの突出した破壊力がある、ハチャメチャなあの脚本!
私たちが愛する三谷幸喜は、100書いた伏線を100拾いますからっ。
心優しい彼女は、そんなことはおくびにも出さない。
でも、絶対そうだ。『ベルばら』のせいだ。植爺のばかあ!

それが、『THE LAST PARTY』に誘ったら、彼女はあっさり「観たい」と言ったのだ。
どんな話かも知らず、もちろん大和悠河のことも知らず。
たぶん、「ジュンタが面白い作品だって言うんなら、信じていいんじゃないかな」って思ってくれたんだよね。
すっごい嬉しかった。

だけど、ちょっと不安もあった。

大和悠河の芝居は、えーと。特殊だから。
大和悠河は、ファンタジスタだから。

芝居を観る目は肥えている彼女だ。
単純に「下手くそ」と言われたら、どっ、どーしよお?!
あのう技量が、あの、そのう。

なんてね。本当は自信満々。
絶対に伝わる。タニぃの魂の芝居は、絶対に絶対に伝わる。
いろんな舞台を観ている彼女にこそ、観て欲しかった。
ファンタジスタ大和悠河を、実感して欲しかった。

そして後日。『THE LAST PARTY』を観た彼女から、メールを貰った。

>この前はタニちゃんの舞台、ありがとね〜!
>ごめんね、私「宝塚に偏見持ってない」とか言っておいて、やっぱり偏見持ってたみたい。漠然とだけど、「宝塚の雰囲気に、自分の気持ちを近づけなくちゃ!」みたいに思ってた。
>でも、別に苦労しなくても、入り込めた。宝塚独特の表現とかはあっても、「なーんだ、普通の芝居と変わらないじゃん」と思った。
>『ベルばら』しか観てない宝塚のイメージ、勝手に作りあげてたかも。

タニぃの魂が伝わって、彼女の宝塚を見る目が変わったんだよ。
すっごい嬉しかった。

え、えーと。
タニぃの魂が伝わったんじゃなくて、景子先生の魂が伝わったってことなのかもしれない、けど(小声)。
まあ何にせよ、よかったよかった!

だーかーらーね!
『ベルばら』なんか演ってる場合じゃないと思うのだ。
上演する意義はあるのかもしれない。
「宝塚の『ベルばら』」と言えば、世間が「ほお〜」とは言うしね。
宝塚を観るきっかけ、生の舞台に触れるきっかけにはなるかもしれない。
そこから宝塚や舞台を愛するようになる人も出てはくるだろう。
でも、そんなことよりも、本当に人の心に訴えかける作品を世に送り出すことのほうが、何倍も何倍も大切なのではないだろうか。
たとえ地味でも、そういった作品はどんな人の心にも必ず響くはずだ。
「トップスターじゃない人が主演」の「日本青年館で上演される作品」を「どんな人」でも観に行くのかってなると、確かに難しいところなのかもしれないけれど。
でも、大作より良作。宝塚のやるべきことは、そっちではないのか。

そう、彼女のメールの締めの言葉。

>タニちゃん美しくてカッコよかったよ〜!
>ただ「男の趣味が違う」から、見続けても多分好きにならないだろうという予感はあります。

あ、やっぱな(笑)。
私はマックス@まりえった堕ちすると思ってたんだけど。だって、あーいうセクシーな大人の男がもろタイプだもん、彼女。残念ながら、それもなかったよーで。

余談。
彼女は宝塚の知識はないから、いろんなことを聞いてきてね。
「お茶会」っていうのも、謎だったみたい。
それで私は、宝塚における「お茶会」の説明をしたりしてたんだけど。
「それは主役の人だけが開けるの?たとえば今回はタニちゃんだけがやるの?」と聞くので、「そうじゃなくて、生徒さんは殆どみんな公演中にお茶会をやるの」。
そうだ、昨日はあひちゃんのお茶会だったはず。
「昨日は……」、ここで彼女はあひちゃんでも遼河はるひでも通じない人だってこと思い出して。

「昨日はヘミングウェイのお茶会だったんだよ」

をい、ヘミングウェイのお茶会ってどんなだよ?それこそ「テーマ、ストーリー、登場人物」を語り……てえ、すげー(笑)。
前回ペンライトの話をアップしたところ、我が裏友(笑)ふぇりさんからこんなメールをいただいた。

>あのタイプのペンライト、私もたーちんのムラ楽でもらいました。
>そして去年家が停電になったとき、私の部屋で光ってました(笑)

早速、停電の日のふぇりさんの日記を遡らさせていただくと。

>私の部屋では、たーちんムラ楽のときのカラフルなペンライトが活躍中(笑)
>場違いすぎて和んでます(笑)

爆笑。
ちょっと待ってくれ、ふぇりさん。
や、私も「停電になるのが待ち遠しい」てえ書いたけどっ。
ネタ半分のつもりだったんだけどっ。

いたんだ、ホントに使った人(爆)。
いつ電気が復旧するとも分からない暗い部屋の中で、たーちん楽ペンライトを点けて和むふぇりさんってば。テラカワユス(はあと)。

さて、そんなふぇりさんがくださったメールの、締めの言葉。

>でも、光が広がりすぎちゃって懐中電灯としての役割はほとんど果たしてもらえなかったですよ(当たり前)

ははははは。やっぱダメかあ。

ん?試してみよー。

そして私は部屋の明かりを消し、ラスパ楽ペンライトを点けてみた(点けたんかい)。

そう、ペンライトの光って広がっちゃうんだよね。

ぼんやりと広がる光の向こうに、スコット@タニぃの笑顔が見えてきた(ついに幻覚)。
そして、はっきりと『Life』が聞こえてきた(さらに幻聴)。

気が遠くなるような幸福感のなかで、私はそっとペンライトを振ってみた(振ったんかい)(やばい病んでるよこの人)。

タニぃに逢いたいよう!!!!!(さめざめと泣く)(末期症状)

や、スコットには会ってくるけどね。
月ラスパ、観る。チケットないけど、どーにかする。

スコット@タニぃを愛しているから。
スコット@ゆーひちゃんも観たい。観なくてはならない。
絶対に。
観なきゃ『THE LAST PARTY』を、本当の意味では語れない。

ええ。宙ラスパ語りは、まだまだ続く(シツコイ)。
ニーズないけど(笑)書く気だけはあるので。

でも、月ラスパの日程、困るんだってば。
なんで宙『NEVER SAY GOODBYE』初日と被ってるんだ!
あ、もちろん初日、そして翌日はムラなんで。
でさ、立樹アンドレ楽とも、さらに立樹茶(行くのか!笑)(ごめんちょっと浮気)とも被ってるんだけど。いったい、いつ芸劇に行けというのだ?
タニ担で星担な人に、月ラスパを観せない気か劇団!!(そんな人が私以外にいるのかは知らん)

でも観るよ、スコット@ゆーひちゃん。
絶対に。

『THE LAST PARTY』の描くスコットの人生が、すべての人に普遍的にあてはまる、生きることそのものの根底にある物語であるのなら。
タニぃにはタニぃの。ゆーひちゃんにはゆーひちゃんの。
それぞれのスコットが存在する筈だから。

スコット@ゆーひちゃんにも、会いたい。

絶対に。
ペンライトのどーでもいーお話@『THE LAST PARTY〜S.Fitzgerald’s last day』青年館千秋楽・その3
『THE LAST PARTY』日本青年館千秋楽では、客席全部にペンライトが配られた。
スターさんのサヨナラ公演や特別公演の千秋楽では、最近このペンライトがおなじみとなりつつある。
てゆーか、宙組ファンならすぐ気がついた筈。この日配られたものは、ガイチ東宝千秋楽とお揃いだ(笑)。
(画像をクリックしていただくと、ペンライト全体が見えます)
ガイチのときは白(文字はもちろん緑)、今回は黒。
なんで、ウチには色違いのペンライトが2本ある。
蛍光のポキンって折って使うやつ、あれなら他にもあるんだけど、この2本は懐中電灯タイプ。停電のときには再利用できるしっ!

他の公演で貰ったペンライトは、「○○の曲で振ってください」やら「幕間に袋から出してご準備ください」やら、各会からの注意事項が書かれた紙が同封されていた。
しかし今回のペンライトには、販売元だか製造元だかからの注意事項が書かれた紙が同封されていたのだ。つまり、正に「使用説明書」ね。
これちょっとツボったので、どーでもいーけどそのお話。

  △注意 保護者の方へ必ずお読みください
  ◆ニッカド電池は絶対に使用しない。
  ◆古い電池と新しい電池、いろいろな種類の電池をまぜて使わないでください。
  ◆電球をなめたりさわったりしないでください。
  ◆+−を正しくセットしてください。
  ◆遊んだ後は必ずスイッチを切ってください。
  ◆ショートさせたり充電、分解、加熱、火の中に入れたりしない。
  ◎人にむかって投げたりたたいたりしないでください。

・保護者の方へ?私、充分大人なんだが。ママに読んでもらったほうがいーのか?
・電球、なめないからっ。大丈夫だからっ。
・◎ってことは、人にむかって投げるのが一番いけないことなんだな。てか正しくは「人にむかって投げたり、人をたたいたりしないでください」ではないのだろーか。
・ん?「ペンライトをたたいたりしないでください」かな?
・なんで「しない」って言い切ったり、「しないでください」ってお願いしたり、態度変わるんだ。キモチワルイ。
・とにかくニッカド電池だけは「絶対に」使用「しない」!!なわけか。なんでだ?

使用説明書を読みながら、しばし笑った私であった(や、ほんとにどーでもいー揚げ足取りだわ)。

スイッチは押し回し式。何ていうのかな、後ろの出っぱった部分(画像の右端ですね)を本体のミゾに合わせて、押し込んで回す。
大抵ペンライトって、バラードに合わせて左右に振りましょう、みたいな指示があるものだ。
そして本心を言うと、これ私テキにはかなーりやりにくい。バラードにパン!パン!って手拍子入れてるよーな感覚に陥ったりするので。
今回はフィナーレの『Welcome’s20’s』、アップテンポな曲でペンライト点けて、バシバシ手拍子が入った。
これ、もーめちゃめちゃ楽しかったわっ。手も腫れんばかりに叩きまくりだわっ、ええ。

えーと、タニぃが出てりゃなんでも楽しいんだろって突っ込まれると、はい。

……そ、そーかもしれないが。

ただ、この手拍子には難点があった。
片手にペンライト持ったまま、両手で手拍子。あまりにも気合い入りすぎると、押し回しスイッチも無意識にガンガンたたいちゃうわけで。
と、スイッチがミゾから外れてオフになっちゃう。
ハッと気づくと、自分のペンライトが消えてるんだよう。あわてて暗い客席でごそごそスイッチ押し込んで(これが暗いとうまくいかないんだ)、また夢中になって手拍子して、またペンライト消えてて……。
何度もごそごそやってた馬鹿は私だ、ごっ、ごめんなさい。

でも終演後に聞いたら、こーゆーかたは多数いらっさったよーで(笑)。

はっ。だから「ペンライトをたたいたりしないでください」なのか(違)。

フィナーレの曲で一度スタンディングになって、まりえったの挨拶が始まると全員着席。なんて礼儀正しい宝塚ファン(笑)。
カテコはふたたびスタンディングで、私たちは気が狂ったよーにペンライトを振り回し、たたき続けたのだった。使用説明書まるで無視(大丈夫、電球なめてないから)。


楽しいよう。
幸せだよう。
この気持ちを舞台のみんなに伝えたくて、客席のペンライトはいつまでも揺れていた。

楽しいよう。
幸せだよう。
この時間が永遠だったらいいのに。

でも、絶対に忘れないから。
タニぃの笑顔、みんなの笑顔、いつでも思いだせるから。

そして、また幸せになれる。

最後の緞帳が下りる間際、タニぃのヒトコト。
「ありがとーーーお!ペンライトーーーお!」(笑)


ああ。
タニぃと共に過ごした幸せのペンライトが、ウチにあるの(めろめろ)。

ああ。
スイッチを押せば、いつでも点くの(でろでろ)。

ああ。
停電になるのが待ち遠しいアタクシ(だから待たなくていーから)。
大和悠河は、涙を流していたか。

私の数少ない(笑)タニ友の誰かしらが、毎公演のよーに言い出すんだ。
2幕の『Life』(リプライズ)。
「タニちゃん、今の回ほんとに泣いてたよね?」

と、もっと前方席に座ってた別の人が、「……違うと思う」。

結論。
えーと……汗?!

タニオカさん、汗っかきだからっ。

タニの涙は、私も見てないの。
7公演中、一度も。

や、わかんない。
『Life』では、なんせ自分が漏れなく号泣してるし。
自分の涙で視界朦朧だもん、人さまタニさまが涙流してるかなんて見えてるどころぢゃないかもで。
だから、言い切れないんだけどね。

さて、前楽。
終演後、1人のタニ友が叫んだ。
「絶対です、涙が頬を伝うのをはっきり見ました!」
私?
うーん、見えなかった。ような。

や、わかんない。
『Life』では、なんせ自分が漏れなく以下略。

泣けばいいってものぢゃないよね。
それは解っちゃいるものの、やっぱ気になるタニ担たち(笑)。

そして、千秋楽。

大和悠河は、涙を流していたか。

私は、そう見えなかった。
千秋楽は、すっごい良席に座ってたんだけど。普通に考えたら、涙流してれば絶対に見えるよーな。
でも私は、タニの目から涙が流れているようには見えなかった。
物理的には。

泣けばいいってものぢゃないよね。泣くことが芝居の深さだなんて、思わないけど。
それは解っちゃいるものの、現実にある種の武器になるとは思う。
ここぞというクライマックスで流れ落ちる涙は、効果的だ。実に解りやすい。

大和悠河は、涙を流していたか。

私は、そう見えなかった。

物理的には。

だが、泣いていた。
『Life』(リプライズ)を歌うスコット・フィッツジェラルドの魂は、泣いていた。
大粒の涙をぼろぼろと流しながら、痛いほどの叫び声をあげていた。

それでも、過去に負った自らの傷を抱きしめながら。
今、射してくる光を受けとめる、真っ直ぐな眼差しを。
明日を生きようとする、強靭な意思を。
私たちは、はっきりと見た。

大和悠河が生きるスコット・フィッツジェラルドの魂は、そのとき確かに涙を流していた。

だから、それがすべてだ。

そして、千秋楽。
『Life』(リプライズ)の叫びは、最高潮に達して。
この日のスコットを、私は一生忘れないだろう。

だから、それだけでいい。
実際に涙を流していようがいまいが、もうどうでもいい。

あ、『Life』(リプライズ)のあとに、涙をそっと拭う芝居をさせる演出ね、あれはどーなんだ?
あのう、タニオカさんは「大和悠河」のリアルな表情が「出てる」ときってそれはそれは魅力的なんですが、役でリアルな小芝居を演ろうとすると、そのう。
あんまリアルぢゃない……。

あんなことさせなくても、スコット@タニの魂は伝わってくるのになあ。
(えーとえーと、むしろ演らせないほうが……ねえ)

それで、実際のところ。
タニは、涙を流してました?(←あれ、それでも気になるわけ?)(笑)

答えはCSのみぞ知る。なのか?
「ワン・モア・ドリーム!」
スコット・フィッツジェラルドの声で、最後のパーティーが始まった。


「この世の終わりのように美しいって言葉があるが、この世の終わりってそんなに美しいものなのかな」

あと1分。

書きかけの原稿に、手を伸ばす。書くこと、すなわち生きること。彼が追い続けた夢。
机の上にある写真立てに、ふと目をやる。いちばん幸せだった頃の彼とゼルダ。
彼が愛そうとし、そして愛したゼルダ。

この世の終わりに、生涯を賭した夢、愛したものたちを抱きしめて。
この世の終わりに、いちばん美しいものたちに一輪の薔薇を捧げて。
愛と感謝と。

彼は右腕を宙に伸ばす。
それをひるがえし、自らの人生に幕を下ろす。

彼が愛したものたちを残して。
彼を愛するものたちを置き去りにして。
この世を去りゆくスコットは、もう決して振り返らない。

それでも、彼の愛は残る。
彼が愛した、彼の小説のなかに。
彼を愛するものたちの、心のなかに。

そして、21世紀に生きる私たちの心にも、彼の言葉は語りかけてくる。
彼が身を削いで紡ぎだした言葉は、彼の愛は、私たちに届く。
これからも、永遠に。


大和悠河の見せてくれた夢が、今日で終わる。
大和悠河が右腕をひるがえし、舞台に幕を下ろす。
日本青年館千秋楽。

だけど、ワン・モア・ドリーム!
この舞台の終わりに、もういちど夢を。
彼を愛する私たちの心のなかに残る、永遠の夢を。

今、フィナーレが始まる。

Welcome’s20’sが、ふたたび流れる。
大和悠河の笑顔がはじけ、舞台のみんなの笑顔がはじけ、客席のみんなの笑顔がはじける。

劇場の空気がきらきらに、きらきらなってゆく。
これがタニの技だと思う。
もちろん、出演者みんなの力あってこその主演ではある。
しかし、劇場にタニの放つ光が満ちてゆくのが、はっきりと見えるのだ。
すべての人を幸せにする、タニの光。
光に満ちる、美しい場所。

つくづく真ん中の人。感嘆する。
真ん中に立つために生まれてきた、まさにそう。

真ん中のタニは、正しく真ん中としての輝きを放つ。

誰よりも正しくねっ!(とまで言っちゃうからイタいんだってば)


たーのーしーいいいいいい!!
もお、すげー幸せだよ、私。
タニは、人に幸せを与えるために、この世にいてくれるんだよね。
最後の舞台をやりとげた、満足感あふれる誇り高い笑顔。あああ!ステキっ!(崩壊)

フィナーレのタニは、スコットの顔なんだけど、でもかなりの確率で「タニちゃん」してて。
ちょっと子どもみたいな、くしゃっとした笑顔。あああ!すげー好きいっ!(崩壊)

最初から最後まで「タニちゃん」ぢゃ困るんだけどね。
役として生きているとき、ふとした瞬間に見せてくれる「タニちゃん」の笑顔が、私は大好き。
場面を壊しちゃうこと?んーと。
あるんぢゃないの?(笑)
だけど、それが大和悠河で、タニの魅力だから。
そして、役とリンクしたときに、その笑顔は何よりも強い武器となるはずだから。
それがあってこそ、大和悠河の演じる役は、大和悠河にしか成しえない色を持って輝く。
どんな役でも、大和悠河にしか出せない答えとしてしまう。そのキーワードのひとつは、笑顔にある。それだけの主張を持った、「タニちゃん」の笑顔。

だから、笑って欲しい。あなたの笑顔を、見せて欲しい。

フィナーレは、遠慮なく笑顔爆発だからっ。

タニ、ぐあんぐあん発光してるからっ。


客席にはペンライトが光っている。1階も、2階も。
出演者に「ありがとう」っていう、私たちからのメッセージ。
きらきらに光る舞台の上のみんなにありがとうを言いたい、みんなに光を還したいけど、私たちは発光してないから(笑)。

この場所にいられることに、感謝を。
大和悠河に、ありがとうを。
舞台の上のみんなに、ありがとうを。


気が遠くなるほど幸せで、だけどせつない。
いつまでもあなたの光を浴びていたいのに。
もうすぐこの時間は終わってしまう。


スコット・フィッツジェラルドとは、今日でお別れしなくてはならない。
でも。
大和悠河はこれからも常に、正しく大和悠河として輝いてくれるだろう。
彼が身を削いで紡ぎだす言葉は、彼の愛は、私たちに届く。
どんな役でも。どんな舞台でも。

だから、私は彼に会いにいく。
また、劇場にいく。
大和悠河が輝いてくれる、この場所にいく。

そうすれば、彼の光を浴びられるのだ。
何度でも夢を見られるのだ。

だから、私は劇場にいく。

どんな役でも。どんな舞台でも。
これからも、永遠に。
大和悠河が大和悠河であるかぎり。
彼に会いに劇場にいく。

そして私は、舞台の彼を愛しつづける。
彼の輝きを愛しつづける。

これからも、永遠に。
「友達の彼氏」

これ、サトリちゃんの名言なんだけど。
「友達のご贔屓、イコール友達の彼氏みたいなもので、すごーく気になっちゃう」ってこと。
うん、それよーく解る。舞台に出ている「友達の彼氏」って、なんだか一生懸命観てしまうよね。
そして、青年館では「私の彼氏」が主演中なの、ふっ。
て、イタい。言ってることがかなーりイタいぞ、自分。まあ、それくらいの気持ちだというお話。

3日目。「私の彼氏」(だからイタいってば)を観に、ドリーさんとkineさんが青年館にやってきた。
今回の公演は4日間7公演。そして私は全7公演のチケットを握りしめ、朝から晩まで青年館。つまり、「私の彼氏」(だからイタいってば)を観る友達とは、漏れなくお会いできるというわけだ。

幕間。何も言われもしないうちに、つい、先に喋りだす私。
「スコット、苦悩……してる?して……してない、足りないよねえ」

私は、1幕のスコットも、すばらしいと思っている。
美しく輝けるものが、傷つき曇っていく。そのせつなさもやるせなさも、タニならではの色で表現されている。この1幕のスコットは、タニにしか出せない。
それでも、すごーく冷静に「演技力」という評価のしかたをしたとき。少し弱いというふうに捉える人もいるんじゃないかっていう懸念も、やっぱりある。
じゃあ、友達から指摘される前に言ってしまえ、みたいな(笑)。

仮にそうだとしても、大和悠河のスコット・フィッツジェラルドが、2幕の『Life』(リプライズ)で観客の心を捉えることは確信しているから。これは絶対だから。
幕間に軽口を叩いてみても、実は心の中で「私の彼氏」(だからイタいってば)に自信満々なわけだ。
『Life』(リプライズ)を歌う彼は、壮絶なまでに強く、美しく、輝いている。

大和悠河は、本当に不思議な人だと思う。
あまりにもきらきらと輝きすぎて、ともすれば「苦悩」すら、その輝きの前で見えにくくもあるかのようで。
『Life』(リプライズ)を、ただ輝いているだけの人に終わらせないのだから。
1幕とはまったく違う『Life』。
スコットが見つけた、自分の『Life』。

先天的な輝き。それしか持っていない人なら、そこが出せないはずだ。
でも、違う。
「苦悩が苦悩に見えにくい」「あがきがあがきに見えにくい」と書いてしまったけれど、それでもそんなことは無問題だと言いきれるのは、それがあるからなのだ。

傷つき、ずたずたになって何もかも失い、いや、失ったかのような中で、「再起」するスコット。彼が歌う『Life』。
それは、目の前に希望だけが広がり、あらゆるものが手に入ると信じて『Life』を歌っていた、かつての若く美しいスコットではない。
スコットの経た、破滅と苦悩。流した涙。

押し潰され、壊れそうな、あなたの魂の声が聞こえる。

彼は知った。

誰もが苦しみ、傷つき、それでも人は生きていく。
生きていかなければならない。

スコットが闇の中で見出した、一筋の光。
どんなに苦しくとも、今はかすかであろうとも、その光の中には確かな喜びがある。

ふたたび希望にうち震える、あなたの魂の声が聞こえる。

それらすべてが、聞こえてくるのだ。

絶望を越えた人間の持つ、真の美しさと強さ。その輝き。
『Life』(リプライズ)で絶唱する大和悠河の輝きは、再起するスコット・フィッツジェラルドまさにそのものの姿となって、私達の心を揺さぶる。

泣くよねーーー。もう、号泣するしかないでしょ。

タニの歌。
お歌がどうとか言われちゃう人なのは、充分解っている。
でも。この魂をあらわすことができるなら、もうそれでいいんだと思う。
譜面どおりに歌える人は、他にもたくさんいるけれど。
タニの絶唱は、観ている私達の心に確実に届く。芝居の歌に必要なもの、それはその魂だから。
私は、大和悠河の歌を、全面肯定する。

もしかしたら。
苦しんでいたのは、タニかもしれない。
あまりにもきらきらと輝きすぎて、ともすれば「苦悩」すら、その輝きの前で見えにくくもあるかのようで。
そんな大和悠河に苦しんで、何かを掴もうと必死にあがいていたのは、タニ自身なのかもしれない。
下級生の頃からきらきらで、今も輝きは少しもくすみはしない。
変わらないその美しさ、それを私達は簡単に「魔法のようだ」なんて言ってしまうけれど、現実に魔法なんて誰も使えはしない。

誰もが苦しみ、傷つき、それでも人は生きていく。
生きていかなければならない。
自分の足で一歩ずつ、歩かねばならない。

スコットだって、タニだって、ひとりの人間でしかない。
魔法を保っているかのような裏側で、タニはおそらく気の遠くなるような努力をしているに違いない。
そして、世間が求めるアイドル「タニちゃん」と、自分の中の理想の男役像のギャップを埋めるべく続く果てなき暴走。いや、暴走という名の果てなき努力。
苦しみ、あがき、そして今。
大和悠河は何かを掴んだのかもしれない。
そのタニの輝きがスコットとなり、スコットの魂がタニとなって、今舞台の上に存在している。


それでもね。
タニがハンパじゃなくすごいのは、「いや、待てよ?実はこの人、やっぱ何も解ってないで演ってるんじゃないか」って、なお、そう思わせちゃうところ(笑)。

神。

人間じゃないのよ、タニは神なのよっ。
だから、何も解ってないまま、輝きを失うことなくピタっと2幕の『Life』で、すべて持っていけちゃうんじゃないの?

今まで。
大和悠河は、神に選ばれし人だと思っていた。

違う。
大和悠河こそ、神そのものなのだ。

真顔でそう思ったりもしちゃう。イタい、かなーりイタいけどっ。

それくらい、大和悠河のスコット・フィッツジェラルドは、自然に舞台に息づいている。
そして強く、美しい。

この世のなにものよりも、強く、美しい。


でも、時は永遠ではない。
明日はスコット・フィッツジェラルドとお別れしなければならない。
舞台の上にしかいない、幻の人。

千秋楽の幕が下りるとき、彼は私の前から姿を消してしまうのだ。
大和悠河は、演技派ではない。

好きだけど言う。
好きだから言う。
演技力……技量、という点において、大和悠河は決して高いレベルにある人ではないと思っている。
緻密な計算で役を掘り下げ、その人物の輪郭を明確に浮き上がらせる。そういうことができるタイプの役者ではないだろう。

そして、そんなことはどうでもいい。

大和悠河の価値は、それとは全く別のところにある。

だが。

『THE LAST PARTY』が好きだ。
人生の苦しさを肯定し、それでも生きていこうって優しく背中を押してくれる、この作品が好きだ。
人生はせつない。だからこそ美しい。
自分の手で見つけた『Life』、その気高さに胸打たれる。

そう思ったとき、気になることがあった。
タニの技量は、スコットに足りていないのではないか。
「書けない作家」
物を創る人間の破滅、苦悩、そしてあがき。それを越えたときの輝き。

なにしろタニはいつも輝いているから。
苦悩が苦悩に見えにくい。あがきがあがきに見えにくい。

ファンだから言うが、タニは頑張っていたと思う。熱演だった。
タニ的にはすごく苦悩していたし、あがいていた。それは解る。
でも、スコットの苦しさや絶望の底に沈んでいくさまをタニが精細に表していたかというと、やはり少し足りない。出しきれていない。そんな気がした。
作品を好きだと思えばこそ、そんなタニの足りなさが少し辛かった。その「足りなさ」が、作品にとって「欠ける」部分になってしまうから。

『不滅の恋人たちへ』、私はこの作品のタニを絶賛した。
きらきらとまばゆいばかりに、正しく大和悠河。
同じ「書けない作家」でも、ミュッセはあれでいいと思った。
あの作品は、話なんか無いから。ミュッセは何も掴んでいないから。
だから、タニが無駄に輝いてる、それだけがひたすら楽しかった。
タニが演ってることイコールそれがミュッセで、こうしたらいいのにとかタニが足りないなんて全然感じなかった。
真の苦悩が見えない?所詮ミュッセはお坊ちゃまで、苦悩する自分に酔っているだけ。結局、何も解っちゃいない人なんだと思っていた。

だって別にいーじゃんタニの演ってることがミュッセですがなにか?脚本には何も書かれていませんよ問題ないと思いますがなにか?

スコットは違う。負の部分が明確に出ていないと、作品の骨格がぼやけてしまう。
時代の寵児となったスコットが、自分の書きたい物と世間とのギャップに苦しみはじめ、リヴィエラで新しい生活を始める。
このあたりから、舞台が間延びしてくる……ような気が、少しした。

なにしろタニはいつも輝いているから。
苦悩が苦悩に見えにくい。あがきがあがきに見えにくい。

More Party!!
そんなに楽しんじゃダメでしょ。パーティーに逃げるのは苦しいからだ。
はしゃぐスコットの奥底にある苦悩が見えてこないことには、話が変わってしまう。

なにしろタニはいつも輝いているから。
苦悩が苦悩に見えにくい。あがきがあがきに見えにくい。

物を創る人間が受け止めなければならない壁、ひいては人が生きるとき必ず受け止めなければならない壁を表現しきれていないとしたら、その先にある2幕の『Life』は、本当の意味で歌えないのではないだろうか。
きらきらと輝くタニの熱唱に号泣しながらも、そんなことを少しだけ考えていた。

本当は、これが初日の感想。
タニが好きだから、気になる。大好きなタニだからこそ、そこが少し引っかかった。

2日目。
舞台の幕が開き、スコットが登場する。
きらきらとまばゆいばかりに、正しく大和悠河。
夢と希望に満ち、世界中のなにものよりも輝ける、美しいひとりの青年。

これからその瞳は曇り、傷つき、絶望に打ちひしがれる。
それを知ってしまったから。

今の彼の美しさに、息を呑んだ。

こんなに輝いているものが、どんどん堕ちていくのだ。

その哀しさに、胸をえぐられた。

誰もが苦しみ、傷つき、それでも人は生きていく。
生きていかなければならない。

だからこそ、夢と希望の『Life』、若きスコットのきらきらと美しい姿に圧倒された。

まばゆいばかりに、正しく大和悠河。
そして。
まばゆいばかりに、正しくスコット・フィッツジェラルド。

いいんだ。タニはこれでいいんだ。

他の誰に、この輝ける魂が出せるというのか。
タニ以上に輝いている人など、この世に存在しない。

堕ちていく部分に足りなさがあったとしても、輝きのほうにマックスで振り切れていれば、メリハリはつく。
スコットの魂は、それで伝わるのだ。
初日にチラッと思ったことなど、杞憂にすぎなかった。

私は確信した。
他の誰にも、このスコットは出せない。
絶対に出すことはできない。

輝ける若きスコット、傷ついていくスコット、また希望を探りあてたスコット、そしてその人生に幕が下りる最後の1日。
すべてが愛しかった。
スコットが愛しかった。
舞台の上で生きる大和悠河が愛しかった。

今この時間にしか存在しない彼が、心の底から愛しかった。
彼に会える時間が幸せだった。彼と別れなければならないときがせつなかった。

私は、ただただ泣き続けていた。

初日に一緒だったのはサトリちゃん。
「タニじゃなきゃどーだったんだろーって考えずにはいられないの。気持ちのなかで5%くらいね、完璧な芝居でスコット演ってくれる人で観たい、そー思っちゃうのよね」とブチあげたのはすべて撤回します。ごごごごごめんなさい。
だって、タニ以上に輝くスコットなんて有り得ないのよう(でれでれ)。
そして、2日目に一緒だったヨオちゃんは、タニのスコットがいかにすばらしいかという私の演説をえんえんえんえんえんえんえんえん聞かされるハメになる。ごごごごごめんなさい。
だって、タニ以上に輝くスコットなんて有り得ないのよう(めろめろ)。

我が友受難の日は続く(笑)、青年館はあと2日ある。
今に見てるがいい。僕には何かがある。
人とは違う、秀でた何かが!

ひたすらにみんなの注目を集め、尊敬されたいと願った若き日のスコット・フィッツジェラルド。
こんなちっぽけな町飛び出して、大都会で成功する!
彼が選んだ手段は、小説。紙とペンに詰まった無限の可能性を信じ、アメリカを代表する作家になることを夢見る。
僕は父さんのような負け犬にはならない。望むものは手に入れる、この手で必ず。

彼は歌う。『Life』、それは夢と希望の歌。
世界は自分のものと信じることができた、若く美しく、輝きに満ちたスコット。

ある晴れた日 僕は思う
人生は美しく 希望は誰にも決して消えることない
光の射さない朝はない
Life この手につかむ Life この世のすべて
夢と栄光に満ちた That’s my life
明日晴れた朝 世界は僕を呼ぶ
明日晴れた朝 世界は僕のもの

彼は望むものすべてを手に入れた。いや、手に入れたかに見えた。
しかし、彼の栄光は長くは続かない。折しも大恐慌の時代に突入し、アメリカン・ドリームが終焉を向かえたとき、スコットの栄光もまた、終わりを告げた。
夢のあとに必ず訪れる挫折。人生の壁。
スコットの背中には羽があった。みんなの手前、二本の足で歩いてみせていたかのような、若き日のスコット。
いや、人は誰も羽など持っていない。着実に、自分の二本の足で歩いていかなければならないのだ。
だが、血の滲むような努力をしても、彼に結果は出ない。
二流のトップになら、誰でもなれる。その二流のトップと一流の間にある、天と地の隔たり。
スコットが本当に目指すものは、後世まで読み継がれる価値のある一流の小説。
身を削いで書いた新作『夜はやさし』は、批評家たちに酷評される。
苦しみ、もがき、それでも思ったように書けないスコット。
その脳裏に今まで出会った人々の幻が現れては消え、さらなる絶望の底へと彼をいざなう。深い闇に沈んでいこうとする彼の前に、最後に立ったのはひとりの学生の幻。
それは、公園のベンチで『夜はやさし』を読んでいた、あの学生だ。
「長いんだなあ。ほら、ヘミングウェイみたいなたたみかけてくる躍動感がないし、スケールが小さいっていうか」
『夜はやさし』を批判し、それでも最後に学生は言った。
「彼の本って、どんな人の人生にも寄り添ってくれるっていうか。だから、どんな人にも語りかけてくる。次の長編、いつ出るのかなあ」、何故だかまた彼の本を読みたくなるのだと。
公園で聞いた学生の言葉、それは絶望にあえぐスコットに射しこんできた、かすかな光だった。
頑張れ、頑張れ、小さな狐。象やライオンなんかに負けるな。
あのときの学生が、スコットにラグビーボールをパスする。それは、スコットにふたたび渡される、希望のパスだ。
そのパスを掴んだとき、スコットの前に道が開ける。大きな壁の前でへたりこんでしまっても、人には必ず希望が残されている。
壁を受け止め、乗り越える。そのときに見えてくる、あらたな夢と希望。
真実の『Life』は、そこにある。

ある晴れた日 僕は思う
人生は美しく 希望は誰にも決して消えることない
光の射さない朝はない
Life この手につかむ Life この世のすべて
夢と栄光に満ちた That’s my life
明日晴れた朝 世界は僕を呼ぶ
明日晴れた朝 世界は僕のもの

今歌っているのは、何も知らず若く野望に満ちたスコットではない。
挫折の先にある未来を、ようやく探りあてたスコットだ。
苦しみぬいた末に見出した、一筋の光。
人生に、光の射さない朝はない。どんなに夜が暗く、その闇が苦しくとも、必ず朝は来る。希望の持つ本当の意味を、彼は理解したのだ。

再起。
今こそ、スコットの真に輝ける『Life』が始まった。

彼は作家だ。二流のトップでしかないと自嘲し、売れない新作に苦しみ、しかし結局は後世まで読み継がれる一流の作家となった。
彼の物語は特別なのだろうか。
いや、そうではない。

今に見てるがいい。僕には何かがある。
人とは違う、秀でた何かが!

自分の前には、無限の可能性が広がっている。
平凡な人生を送る誰にだって、あったと思う。そう信じていた、放漫な若い日が。
しかし。若さも、夢も。そんなものは永遠には続かない。
スコットの人生においても、私たちの人生においても。
二流のトップにすらなれない私だって、ちっぽけな自分の少し上にいる人との天と地の隔たりに、もがき、苦しむ。
いや、スコットにとって一流だったヘミングウェイでさえ、最後は自分の弱さに勝てず、自ら死を選んだ。
人はかくも弱い生き物だ。
公園の学生が言った言葉、「彼の本って、どんな人の人生にも寄り添ってくれるっていうか。だから、どんな人にも語りかけてくる」。
それは、スコットの小説の話であると同時に、この作品の話でもある。
『THE LAST PARTY』が描くスコットの人生は、すべての人に普遍的にあてはまる、生きることそのものの根底にある物語なのだ。
一流の人も、二流のトップも、そして平凡な人生でしかない私も。
人はみな、それぞれの壁にぶち当たり、自分の弱さを受け止め、それでも自分の二本の足で歩いていかなければならない。
逃げずに真っ直ぐ歩く。それは瑣末な日常の積み重ねでしかない、地道で辛い作業かもしれない。
だけど、苦しいときこそ回りを見渡して、大きく目を見開いて。
自分の前にパスされたラグビーボールを、がっちりと掴むのだ。
必ずどこからか希望の光は射してくる。そう、誰の人生にも、必ず。


スコットが輝いてます。タニぃが輝いてます。
いやもう、タニぃの輝きが無駄になってません!感動ですうーーー。
だってね『不滅の恋人たちへ』、私あれ全面肯定みたいに書いてますけど、私が肯定してたのはタニぃの「タニ芸」だけですから。
いかなるときにもきらきらと輝ける大和悠河、その「タニ芸」だけなんです。
本当は、もっと先を言いたかったんだよう。なんでタニぃの輝きを無駄遣いするのって。
書けないことに苦悩して、それでミュッセは何をしたの?酒飲んで彼女とお床ゴロゴロしてハイさようならってなんぢゃあこの話はっ!てか物語になってないぢゃんゴルァ!
と、『不滅』語りには続きがあったのですが、えーと。
公演が続きますとですね、なんだかんだとファンのほうも忙しくてなどと言い訳、さらにインフルエンザにやられ、高熱にうなされてまして。
『THE LAST PARTY』初日に間に合わせて快復したのは愛だねえ、と皆さんに褒め称えて?いただいたのですが、そもそもタニぃの公演前にインフルエンザになるなんて愛が足りなかった、と深く深く反省しております。

とと、話が逸れましたが、結局『不滅』語りの続きに手をつけられないまま(ってこの先ニーズもないのに突然書き出す可能性はあります)、『THE LAST PARTY』初日。
同じ「書けないことに苦悩している作家」を題材にしていながらなんたる違い、景子先生ありがとおおおおお!と、涙が出る思いだったのでございます。
役の輝きとタニの輝きが、正しくリンクしております。
こうなったとき、大和悠河は最強なのですよ。

だって、この世にタニぃ以上に輝いている人なんていないんだからねっ!

「人は誰も羽など持っていない」
や、違うでしょ。私にはタニぃの背中に羽が見えます(前言撤回、早っ)。

では、私はこの作品全面肯定なのか。
んー、それが全面とは言い切れないんだけど(笑)。
とにかく初日報告は「大和悠河はきらきらと輝き、そしてその輝きは無駄になっていないっ」、これにつきますっ。
劇場は美しい光に包まれていた。きらきらの、透きとおった光に満ちた場所。
そこにおけるありとあらゆるもの、すべてのものを透明に変えていくような、きらきらの、きらきらの光。
大和悠河の光。

千秋楽の空気って、どういうものだろう。
私は星組の千秋楽を大抵観るのだが、あの場所は熱い。組も熱ければ、客も熱い。
千秋楽の劇場は熱気に溢れ、温度がガンガン上がっていく。
宙組は、そもそもそういう熱さ、悪く言えば暑苦しさのある組ではない。
ただ、この間の東宝楽は、また別物だったと思う。たかハナの退団発表、最後になるショー、ガイチの退団もあり、客席は熱かった。
それでも、真ん中に立つたかちゃん自身は、最後までなんだかほわああ〜っとしていたのが、なんともそれらしかったのだけれど。

光に満ちた場所。
タニが真ん中の千秋楽だと、こうなるのか。
いや、作品もテンションが上がる系統のものではない。それもあるだろうが、やはり劇場を支配するこの空気は、タニの色なのだと思う。

大和悠河は常に発光している。いつも、どんなときも。
きらきら、きらきらと、まばゆいばかりに大和悠河。
私は語彙に乏しいので、「太陽」と表現してしまうことがあるが、本当はそれとも少し違う気がしている。
タニはたしかに、太陽のように強く強く輝いている。でも、その光は熱くない。ぎらぎら、じゃないのだ。
あくまでも、きらきら。強い力を持つが、それでも透きとおるように美しい光。
熱演が発熱にならずに、発光になる。熱く演れば演るほど、ひたすらきらきらと発光する。
私はこれを、大和悠河の類まれなる特性だと思っている。
唯一無二、タニだけが持つ力。大和悠河が大和悠河である理由。
そして、この特性があるからこそ、大和悠河は舞台人として他より抜きん出ていられるのだ。美貌などは、二の次の話だ。
その力を見せつけられた千秋楽だった。
きらきら、きらきらと、まばゆいばかりのタニの光が劇場を満たしていく。
美しい美しい千秋楽。

幸せだった。
挨拶するタニから溢れでる光を浴びているうちに、なんだか私まで浄化されていくような、そんな幸福感。
大和悠河の光が持つ力。

タニの挨拶が終わったとき、天井から紙吹雪が降ってきた。るいちゃんのドレスと同じ色、赤い花びらが舞台に舞い落ちる。
一歩前に出ていたタニは、最初それに気がついていなかった。
みんなの並びに戻り、花びらのなかに入ったとき、タニは驚いた顔で「うわあ」と小さな声をもらした。
ひらひらと舞う花びらを、目で追うタニ。ふっと笑うタニの身体から、もっと強い光が溢れでたとき。

私、壊れました。
あなたはまばゆすぎる。

緞帳が下りてゆく。
その笑顔がもういちど見たくて、私は心からの拍手を送り続けた。

ふたたび緞帳が上がったとき、タニはひとりで立っていた。
そのとき、客席の一部でスタンディングがおこった。
この日、私は緑野さんのおかげで、どセンターの超良席で観せていただいていた。回りでスタンディングが始まったとき、座り続けていられるような席ではない。
隣の緑野さんは、幕間から「最後、立つのお?」と疑問の声をあげておられた。だいいち、熱が上がるような脚本じゃないんだもの。実は私も、その前の公演までは立たなかったのだ。
作品の熱が劇場の温度を上げ、出演者の熱が劇場の温度を上げ、お約束ではなく自然とみんなが立ち上がってしまう。スタンディングって、本来そういうものだと思う。
今回の空気は、それとは少し違ったかもしれない。
だが、そのスタンディングする人たちを見たタニの口が、もういちど「うわあ」と動いて、身体からもっともっと強い光が溢れでたとき。

またもや私、壊れました。
「ごめん、立つよ!」、私は隣の緑野さんにそう断って(笑)立ち上がった。

みんな、みんな、立ち上がった。
あなたの美しい光に、みんなが立ち上がった。

他の出演者たちも、もういちど舞台に出てきた。
感謝の眼差しで仲間を出迎えたタニは、また私たちのほうを向き、くしゃっと顔を崩してこう言った。
「とっても嬉しいでえす!」
違うよタニ、とっても嬉しいのは私たちのほうだよ。
3回のカーテンコールの間、タニは何度も何度も、「うわあ」「うわあ」って、小さな声をあげていた。
にこにこと客席を見回しながら。
きらきら、きらきらと笑いながら。
「うわあ」「うわあ」って、子どものように嬉しそうな声をもらしていた。

こぼれる笑顔。溢れる光。
きらきらに光るあなたが生み出した、美しい美しいこの場所。
あなたに、スタンディングオベーションを送りたい。
あなたがいてくれるこの幸せに、スタンディングオベーションを送りたい。
あなたの光に、あなたの笑顔に。心からの拍手を。
嬉しくて、とても幸せなこの場所に。心からの拍手を。

大和悠河が大和悠河であるかぎり。
私は、とても。
そう、とてもとても幸せだから。
いつも、あなたに感謝の拍手を送り続ける。
タニ、タニ。
タニ!
大和悠河でいてくれて、ありがとう。
ほんとうに、ありがとう。
1月3日。仲間のおかげで、やっと観ることができた『不滅の恋人たちへ』。

ひたすらに、タニが正しく大和悠河。タニの魅力爆発。
一瞬たりとも、タニから目が離せない、離したくない。
劇場に満ち満ちる、タニのきらきらの光。正しく発揮される、タニの真ん中の力。

作品的には、文句はいっぱいある。
だけど、大和悠河の魅力という点においては、とにかく堪能できる。
真ん中に立つ大和悠河の力業……というより、光業を見せつけられた。
いろいろ書きたいけど、時間がない。
これから私はムラに遠征です。千秋楽まで、後半7公演観にいってきます。
初日翌日に観たミュッセとどう変わっているか、すげー楽しみ。
帰ってから日記をまとめられればと思ってはいるものの、壊れちゃってそれどころぢゃないかも(素)。
以下メモ書き。

いつまでも大人になりきれない男。美しい大人の外見を持った、ただの幼稚な子ども。剥き出しの子どもの心のまま、楽しければにこにこと笑い、急に不機嫌になりプイっとむくれる。そんな美しい身勝手さが、人を魅入らせる。剥き出しゆえに、あちこちにぶつかっては簡単に傷ついてゆく心。傷を埋めるべく放蕩を繰り返しても、所詮お坊ちゃま。荒れても、荒れ狂っても、最後まで崩れ堕ちきれない痛々しさ。どんなに傷ついても、もがき苦しんでも、まばゆい光は輝きを失うことはなく。光は輝くほどに哀しくせつなく、輝くほどにとてつもなく痛い。

アルフレッド・ド・ミュッセは、正しく大和悠河である。
新年1月2日。大和悠河主演『不滅の恋人たちへ』、初日の幕が開ける。

1週間以上にわたるこの公演をすべて観るのは、遠征組の私には難しい。初日をとるか、千秋楽をとるか。
迷いに迷って、最終的に千秋楽をとった。後半の全公演、千秋楽までのチケットを揃え、初日はおとなしく家にいようと思っていた。いたのだが。

タニぃに逢いたいっ!

1月2日の朝。
目覚めた私が思ったのは、ただそれだけだった。
タニぃに逢いたい。初日を見届けたい。観なければダメだ。
ただそれだけだった。

今から新幹線に乗れば、開演には間に合う。しかし、チケットは無い。完売している。
だが、どうにかなるかもしれない。ギリギリで手に入る可能性は残っている。
いや、手に入らなかったとしても。
「行っておけばよかった、観られたかもしれないのに」という後悔に比べたら、「せっかく行ったのに観られなかった」という後悔などは、痛みのうちに入らない。

そして私は、新幹線に飛び乗った。

劇場についたのは、開演1時間半前だった。
……お話にならないほど、サバキ待ちの人がいた。バウ待ちと、大劇場のコムカル待ちと。
そうか、全国的に今日は正月休みなんだ。なんてこった。
とりあえず、地元民の緑野さんとnanakoさんにメールした。

>新幹線乗っちまいました(笑)。や、笑いごとぢゃない、チケ出てない。

nanakoさんは、今すぐムラに向かうって言ってくれた。ありがとう、でも来てくれてもチケ無いし。私はとにかく開演まで頑張ってみる。

粘りに粘って1時間半。玉砕。
でもね。nanakoさん、ほんとにムラまで来てくれたんだよ。あーりーがーとおお!(涙)
コーヒーを飲みながら、2人でえんえんと喋りたおし。ゆみこちゃんのこと、タニぃのこと、宝塚のこと。
夜になって梅田に移動、緑野さんも合流してくれた。
中華を食べながら、3人でえんえんと喋りたおし。まっつのこと、ゆみこちゃんのこと、タニぃのこと、宝塚のこと。
「恐れ入ります、閉店のお時間となっておりますが」
気がつけば、客は私たち以外誰もいなかった。私たちのテーブルを残し、アルバイトのおねいさんは店内清掃中。なんてこった。
「ジュンタさん、今晩ウチ泊まっていきなよ。明日ならチケ出るかもしれないし」
こんなありがたいお言葉をいただき、私はnanakoさんの家にずーずーしく上がりこんだ。
スカステを見ながら、2人でえんえんと喋りたおし。ゆみこちゃんのこと、タニぃのこと、宝塚のこと。
よし!明日は頑張るぞ!

翌3日。ムラに着いた私は泣きそうになった。
……昨日よりチケットを待つ人数が増えているではないか。なんてこった。
私のサバキ待ちに付き合ってくれる心優しいnanakoさんと、二手に分かれて粘った。が、チケット出ない、1枚も出ないんだよこれが。
開演15分前頃かな。花の道をkineさんが歩いてきた。kineさんと緑野さんは、今日は『ベルばら』観劇なのだ。
「いやー、あけましておめでとう!」花の道で抱き合う私たち。てか、kineさん。関東人の私がここにいることに、もっと驚いてください。そーね、仲間にはどーせ来るって見抜かれていたから、誰も驚いてくれないのね(自嘲)。
そして、緑野さんも到着。「えー、今日も厳しいの?タニちゃん、人気だねえ」
そう、そうなんでつよ、(●▽●)は人気者でつからね!えっへん!
て、いばってる場合ではない。開演を過ぎてもしばらく粘ったが、諦めてnanakoさんとフルールへ。
たこ焼きを食べながら、2人でえんえんと喋りたおし。ゆみこちゃんのこと、タニぃのこと、宝塚のこと。

nanakoさんが立ち上がった。
「ジュンタさん、行こう。夜の部、探そう」

バウ昼の部を観終わった人たちが、階段を降りてきた。
しばらくして。
私と離れて立っていてくれたnanakoさんが、叫びながらこちらに飛んでくる。
「ジュンタさんっっ!!」

気が狂うほどに思い焦がれていた、『不滅の恋人たちへ』。
1月3日夜の部のチケットが、その手にあった。

大劇場から出てきたkineさんも、緑野さんも、自分のことのように喜んでくれている。
「よかったね、よかったね!しっかりタニちゃん観てくるんだよ!」

幸せだった。
友だちがいてくれて。一緒にご飯を食べてくれて。えんえんと喋りたおしに付き合ってくれて。サバキ待ちにまでも付き合ってくれて。チケットが手に入ったことをこんなにも喜んでくれて。

幸せだった。ほんとうに幸せだった。
これだけの幸せを、友だちからもらえて。
たとえ公演を観られなかったとしても、新幹線に飛び乗ったことを、私は心の奥底から正しかったと叫ぶことができる。

私は幸せだ。

そのうえ、チケットは。
手に入った。

あ、nanakoさんはね、とっても優しい顔をした可愛い人なの。こーゆー人はサバキの声をかけられる確立が高いんだろーな。
私なんかもともと人相悪いし、しかも「チケチケチケチケ」ってぎらぎらした目つきして立ってちゃいけませんて。
可愛いnanakoさんに感謝いたします。ありがとう、ほんとうにありがとうございます。

では、これからタニぃに逢いにいってきますっ!

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