変身を出したついでに、「変身」のお話。
変身。ええ、かあわあいいメガネのバトラーくんが、かっこいーデュークに変身する。私のだあい好きなあの場面ですね。
そう、私はとにかく変身が、「夜会」が大好きなのだ。
大好き。だあい好き。
だが最初からこの「夜会」が好きだったのかというと、前にも書いたかもしれないが(馬鹿だから忘れた)、実は違う。
『ザ・クラシック』大劇場初日。
「冬の庭園(雪)」、つまり「夜会」の場面。
テーブルを拭くバトラーの後ろ姿、そして彼が振り向いてピンスポがあたったとき。
劇場には戸惑いの空気が流れた。
だって、誰だか分かんないんだもん。
「え?かしちゃん?かしちゃんか?」みたいな、拍手入れていーものやら、だって誰だか分かんないんだもん。
ビン底丸メガネに、マッシュルームの鬘。
ダボダボの服で、カキーン!と笑うバトラーくん。
ああ、あのお口はかしちゃんだ。
そう思って拍手を入れた。
しかし、ほんの一瞬だが、劇場にはたしかに戸惑いの空気が流れたのだ。
そのとき、他のかたが、かしちゃんファンのかたがどう感じられたのかは分からない。
ただ、私は怒りがこみ上げてきた。
美しい人に「あんな格好」をさせる必要性がどこにあるのか、私にはまったく理解できなかったから。
中途半端なギャグを持ってくる必要など無い。
美しい人を、正しく美しく見せてくれればいい。
それでいいのに、それがいいのに、なんでこんなことをさせるんだ、と。
正直に言うと、初日はそれ以降、メガネのバトラーくんにはオペラを上げていない。
私は怒っていたのだ。
終演後に、「中詰をビシっとキメないでどーするよ!なんなのっ草野っ、あの場面」とかなんとか息巻いていた。
ような気がする。
たっ、たぶん。
なんせ馬鹿だから、記憶違いかもしれない。
まあ、私が初日に感じたことなど、どーでもいい。
私は気づいてしまったんだ。
翌日には、もう。
美しい人が「あんな格好」をすると、それは恐ろしいまでの可愛い人になるんだってことに。
この日から後は、鮮明に記憶している。
なんせ馬鹿なうえに都合よくできているのだ、私の頭は。
しかし、重要なのは顔カタチが美しいとか可愛いとか、そこではなかった。
そんなものは二の次だということにも、私はすぐに気づいてしまった。
その可愛い人は自由自在にくるくると表情を変え、めっちゃトホホ感も溢れさせつつ、あちこち動きまわる。
この表情が、この仕草が、トホホなくせにとんでもなく可愛い。たまらなく可愛い。
1分でも、いや1秒たりともと言って過言ではないぐらい、同じことなんて演ってないんだから。
生き生きと、それはきらきらと輝きながら。
この可愛い生きもの、ちょっとおぉなんなのおっ!!可愛くて可愛くて、あたし死にそぉなんですけどっ!!(息絶え絶え)
宝塚の拍手って、「入れる」部分がある。
トップさんが出てきたから、ピンスポ入ったから、拍手を「切る」、「入れる」。
私ねえ、本気だった。
バトラーくんが振り向いた瞬間、ぐああああああってテンション上がって、「きゃ〜〜〜っ!!」って本気で手え叩いてた。
全身の血が沸騰して、毎回確実に血管何本かブチ切れてた。
デュークに変身したあとのかっこよさも(含むオエップ口)、さらにくるくる変わる表情も、最後のとびっきりの笑顔も、みんなみんな大好き。
大好き。だあい好き。
だから、最初に「あんな格好」なのは正しいんだ。
全然違うかしちゃんを見せようとしたときの、ひとつの方法として。
でも、「草野先生ありがとう」とは、申し訳ないがあまり思っていないんだけど。
それは、あのバトラーくんを、あのデュークを、あの場面を、ここまでステキなさいこーのものに成しえたのは、貴城けい自身に他ならないと確信しているからだ。
かしちゃんが役者としてあれだけの多面性を持ち、尚且つそのスキルを存分に発揮してくれたからこそ、ああなったんだもんね。
脚本超えた部分だもんね。
それと、宙組のみんな。
ほんとうに楽しそうに毎日あの場面を演っていた、宙組のみんな。
今でもはっきり思い出せる。
東宝の楽が近づいた頃、デュークのかしちゃんがみんなの中に飛び込んでいくときの「うわうわうわあああ」って叫び声。
はっきり聞こえてくるの。
しあわせな、あの声。
その記憶のなかに在り続ける、しあわせな時間。
この時間を自身の魅力で創りあげた、貴城けいのものすごさって!!(震撼)
変身。
だから、かしちゃんはもうデュークには変身してくれないんだけど、彼女が持つ多面性はオンナノコになっても生きるはずだと、私は信じているのだ。
オンナノコになっただけで充分な変身なんだが、それ以上に。
宝塚という枠にはまらない、さらにいろんな変身を、いろんな貴城けいを。
これから、もっともっと。
かしちゃんなら、見せてくれると思うのよ。
変身。ええ、かあわあいいメガネのバトラーくんが、かっこいーデュークに変身する。私のだあい好きなあの場面ですね。
そう、私はとにかく変身が、「夜会」が大好きなのだ。
大好き。だあい好き。
だが最初からこの「夜会」が好きだったのかというと、前にも書いたかもしれないが(馬鹿だから忘れた)、実は違う。
『ザ・クラシック』大劇場初日。
「冬の庭園(雪)」、つまり「夜会」の場面。
テーブルを拭くバトラーの後ろ姿、そして彼が振り向いてピンスポがあたったとき。
劇場には戸惑いの空気が流れた。
だって、誰だか分かんないんだもん。
「え?かしちゃん?かしちゃんか?」みたいな、拍手入れていーものやら、だって誰だか分かんないんだもん。
ビン底丸メガネに、マッシュルームの鬘。
ダボダボの服で、カキーン!と笑うバトラーくん。
ああ、あのお口はかしちゃんだ。
そう思って拍手を入れた。
しかし、ほんの一瞬だが、劇場にはたしかに戸惑いの空気が流れたのだ。
そのとき、他のかたが、かしちゃんファンのかたがどう感じられたのかは分からない。
ただ、私は怒りがこみ上げてきた。
美しい人に「あんな格好」をさせる必要性がどこにあるのか、私にはまったく理解できなかったから。
中途半端なギャグを持ってくる必要など無い。
美しい人を、正しく美しく見せてくれればいい。
それでいいのに、それがいいのに、なんでこんなことをさせるんだ、と。
正直に言うと、初日はそれ以降、メガネのバトラーくんにはオペラを上げていない。
私は怒っていたのだ。
終演後に、「中詰をビシっとキメないでどーするよ!なんなのっ草野っ、あの場面」とかなんとか息巻いていた。
ような気がする。
たっ、たぶん。
なんせ馬鹿だから、記憶違いかもしれない。
まあ、私が初日に感じたことなど、どーでもいい。
私は気づいてしまったんだ。
翌日には、もう。
美しい人が「あんな格好」をすると、それは恐ろしいまでの可愛い人になるんだってことに。
この日から後は、鮮明に記憶している。
なんせ馬鹿なうえに都合よくできているのだ、私の頭は。
しかし、重要なのは顔カタチが美しいとか可愛いとか、そこではなかった。
そんなものは二の次だということにも、私はすぐに気づいてしまった。
その可愛い人は自由自在にくるくると表情を変え、めっちゃトホホ感も溢れさせつつ、あちこち動きまわる。
この表情が、この仕草が、トホホなくせにとんでもなく可愛い。たまらなく可愛い。
1分でも、いや1秒たりともと言って過言ではないぐらい、同じことなんて演ってないんだから。
生き生きと、それはきらきらと輝きながら。
この可愛い生きもの、ちょっとおぉなんなのおっ!!可愛くて可愛くて、あたし死にそぉなんですけどっ!!(息絶え絶え)
宝塚の拍手って、「入れる」部分がある。
トップさんが出てきたから、ピンスポ入ったから、拍手を「切る」、「入れる」。
私ねえ、本気だった。
バトラーくんが振り向いた瞬間、ぐああああああってテンション上がって、「きゃ〜〜〜っ!!」って本気で手え叩いてた。
全身の血が沸騰して、毎回確実に血管何本かブチ切れてた。
デュークに変身したあとのかっこよさも(含むオエップ口)、さらにくるくる変わる表情も、最後のとびっきりの笑顔も、みんなみんな大好き。
大好き。だあい好き。
だから、最初に「あんな格好」なのは正しいんだ。
全然違うかしちゃんを見せようとしたときの、ひとつの方法として。
でも、「草野先生ありがとう」とは、申し訳ないがあまり思っていないんだけど。
それは、あのバトラーくんを、あのデュークを、あの場面を、ここまでステキなさいこーのものに成しえたのは、貴城けい自身に他ならないと確信しているからだ。
かしちゃんが役者としてあれだけの多面性を持ち、尚且つそのスキルを存分に発揮してくれたからこそ、ああなったんだもんね。
脚本超えた部分だもんね。
それと、宙組のみんな。
ほんとうに楽しそうに毎日あの場面を演っていた、宙組のみんな。
今でもはっきり思い出せる。
東宝の楽が近づいた頃、デュークのかしちゃんがみんなの中に飛び込んでいくときの「うわうわうわあああ」って叫び声。
はっきり聞こえてくるの。
しあわせな、あの声。
その記憶のなかに在り続ける、しあわせな時間。
この時間を自身の魅力で創りあげた、貴城けいのものすごさって!!(震撼)
変身。
だから、かしちゃんはもうデュークには変身してくれないんだけど、彼女が持つ多面性はオンナノコになっても生きるはずだと、私は信じているのだ。
オンナノコになっただけで充分な変身なんだが、それ以上に。
宝塚という枠にはまらない、さらにいろんな変身を、いろんな貴城けいを。
これから、もっともっと。
かしちゃんなら、見せてくれると思うのよ。
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