ぶたいのかみさま@『黎明の風~侍ジェントルマン 白洲次郎の挑戦~』大劇場前楽
2008年3月18日 宙組舞台の神様が降りてきたような奇跡を感じるときって、たしかにある。
前楽のマッカーサー@大和さんは、まさにその奇跡だったと思う。
大和さんの芸風の最大の特徴は、大和悠河なことである。よくも悪くも。
私は彼を技術的な意味での演技派だとは、決して思っていない。
だが「なにを演っても同じ」と揶揄されがちなその演技は、実は彼なりにあれこれ試行錯誤しながら作りこんでいるものであることも、しかしだからといって必ずしもそれが正解と出るとは限らないことも、むしろその場でいきあたりばったりに勝負してしまったときの結果のほうが良であったりすることも……見てきたつもりだ。ずっと。
それらも含めて、それが大和悠河なのだと認識している。
舞台の神様。
本人の最高の気合いと、作りこんだ末の最高の演技と、その日のたとえば体調とか気温とか湿度とかそんな微妙なことと。
そして舞台の神様の気まぐれと。
すべての条件が完璧に満たされて、奇跡を見られるときが。
たしかにある。
前楽のマッカーサーに、私は奇跡を見た。
作りこんだ末の演技と言っておいて矛盾しているが、ああなるともう演技ではないわけで。
彼はマッカーサーだった。身体ごとマッカーサーとして、舞台の上に生きていた。
作りこんだものが、己の魂のものへと昇華して、怒涛のように噴き出てくる。
凄まじいまでの迫力に、ただ震撼するしか私たち観客に術はない。
彼の身体から、気炎が上がる。
そして、気炎とともに、彼自身がガシガシ発光している。
その迫力に気圧されて、涙が止まらなかった。感動したというのとは、ちょっと違う気がする。
彼から立ちのぼる「気」に、涙腺が圧されるのだ。
あらためて、すごい人だと思わされた。
トップスターだ。
紛うことなく、彼はトップスターなのだ。
あらゆるものを圧する、気炎と発光。
真ん中に立つべき人にしか、この技は持てない。
その選ばれし人であっても、あんな奇跡はそう起こせるものではないだろう。
舞台の神様が降りてきた、その瞬間。
偶然そこに居合わせることができた私は、しあわせ者だ。
前楽のマッカーサー@大和さんは、まさにその奇跡だったと思う。
大和さんの芸風の最大の特徴は、大和悠河なことである。よくも悪くも。
私は彼を技術的な意味での演技派だとは、決して思っていない。
だが「なにを演っても同じ」と揶揄されがちなその演技は、実は彼なりにあれこれ試行錯誤しながら作りこんでいるものであることも、しかしだからといって必ずしもそれが正解と出るとは限らないことも、むしろその場でいきあたりばったりに勝負してしまったときの結果のほうが良であったりすることも……見てきたつもりだ。ずっと。
それらも含めて、それが大和悠河なのだと認識している。
舞台の神様。
本人の最高の気合いと、作りこんだ末の最高の演技と、その日のたとえば体調とか気温とか湿度とかそんな微妙なことと。
そして舞台の神様の気まぐれと。
すべての条件が完璧に満たされて、奇跡を見られるときが。
たしかにある。
前楽のマッカーサーに、私は奇跡を見た。
作りこんだ末の演技と言っておいて矛盾しているが、ああなるともう演技ではないわけで。
彼はマッカーサーだった。身体ごとマッカーサーとして、舞台の上に生きていた。
作りこんだものが、己の魂のものへと昇華して、怒涛のように噴き出てくる。
凄まじいまでの迫力に、ただ震撼するしか私たち観客に術はない。
彼の身体から、気炎が上がる。
そして、気炎とともに、彼自身がガシガシ発光している。
その迫力に気圧されて、涙が止まらなかった。感動したというのとは、ちょっと違う気がする。
彼から立ちのぼる「気」に、涙腺が圧されるのだ。
あらためて、すごい人だと思わされた。
トップスターだ。
紛うことなく、彼はトップスターなのだ。
あらゆるものを圧する、気炎と発光。
真ん中に立つべき人にしか、この技は持てない。
その選ばれし人であっても、あんな奇跡はそう起こせるものではないだろう。
舞台の神様が降りてきた、その瞬間。
偶然そこに居合わせることができた私は、しあわせ者だ。
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