イヴェット@ウメちゃんはムラと東宝の間で、7年後の在り方が大きく変わった。
ムラの、特に初期はクラブでベロンベロンに酔っている様が品の無い蓮っ葉な女で、正に「社交界の薔薇、地に落ちてバラバラ」といった体だった。「みっともないのは姉さんだよっ」と、弟フランシス@みっちゃんが愛想を尽かすのも当然なほど。
公爵夫人@ゆっちゃんに諌められて謝るときも、ふんっ!って感じで。とりあえず謝っておきますけどぉなにか、みたいな。
イヴェットは辛かったのだろう。自分の選択した生き方であったとしても、それにどこかで納得できはしなかったのだろう。かと言って、そのザマでフランシスに「先に生きた大勢の人たちが、多大な犠牲を払ってこの家を守ってきた」のだと、偉そうに説教されてもね。なんか違和感があった。

東宝のイヴェットは、静かに哀しい酒に変わった。諦念の中にもやりきれない哀しみは伝わってきたが、あくまでも貴族の品は崩れていなかった。公爵夫人に対しても反抗的になったりせず、その言葉で自分のやっていることにハッと気付き、自嘲ぎみになりながらも素直に頭を下げているように感じられた。
ただ、こうなってくると「地に落ちてバラバラ」にはとても見えないし、弟が愛想を尽かし姉を置いて帰るほどにも、だからジャスティンが無理やり送っていくことになるようにも、そして抱擁ダンス(笑)に至るようにも見えないというのはあった。このあたりのバランスは、難しいところだと思うのだが。

それでも、東宝の7年後のイヴェットが私は好きだ。フランシスへの説教……「ただ憎んでも変わるはずがない、ここに生きるのだから見つけ出すだけ、何ができるか」こそがイヴェットの生き方の根底にあり、それが活きてくる東宝版のほうが、より彼女のせつなさと健気さを感じられたから。
このイヴェットとフランシスのデュエットが好きだ。作品の中で一番私の胸に迫ってきたのは、ここの歌詞かもしれない。
人生は思うよりあっけなく色褪せる、だとしたらその逆も必ずあるはずよ……そうなんだよね、多分。いや、きっと。うん。
こういう歌詞は、やはり正塚巧いと思うわ(笑)。

7年前、若き日のイヴェットはほんとうにかわいくて。まだ何も世間を知らない、薔薇の蕾。や、この作品でイヴェットが「社交界の薔薇」として咲き誇っているところって、実は一切出てこないんだけど。描かれているのは、その前と後だもんね。

7年前の少女が、時を経て分別ある、貴族としての道を考えて生きる女性になる。イヴェットの7年のときが見えてくる。
ただ、ジャスティンはそこの差異があまり感じられなかった(え?)
(公演中の芝居が)若々しくなっているときは7年後も若々しいし、落ち着いているときは若い頃も落ち着いていた、つか怖かった(笑)。

ジャスティンは青年の頃の夢を抱えたまま、7年のときを過ごした。恋に破れ、車という夢を捨て、調査会社を立ち上げ、ヘレン@まさみちゃんという人生の伴侶と言うべき女性と付き合い、そして7年。
それでも彼は大人になりきれない青年……いや少年の頃の、実家の車の修理工場で車のパーツを玩具にして遊んでいた頃のままの人なんだから、それでよかったんだと思う。
大人の男でありながら、永遠の少年……大和さんの最後には、相応しい役だったのかもしれない。

そう、ヘレン。ジャスティンとイヴェットの間にヘレンが出てくることによって、私の中の薔薇雨は、どうしても王子さまとお姫さまの物語で終わらなくなるのだ。だが、彼女の存在によって男と女の関係性が妙にリアリティを帯びてくるようでいて、そんなものは単なる「男のロマン」、(幼稚な)男の夢物語でしかない、としか私には思えなかった。私はこれでは夢を見られない、まあ正塚の夢なんだろうと。
いや、まさみちゃんが悪いのではなく彼女はすっごくイイ女で、だからまさみちゃんが好演すればするほど、私の中でへレンという女性の処理がつかなくなってほんとうに困った。
ヘレンのことならえんえん語れます。が、これは公演中にも私は力説していたけど、殆ど他からの賛同を得られなかったのですね(苦笑)。いつか書くかもしれないけど、えんえん(笑)。

と、薔薇雨の人たちに思いを馳せてみたりしている……いまだに。

つらつら書いてみたが、結局私は何が言いたいのだろう……いつまでも夢の残像を追いかけていたい子どもは、実は私なのかもしれない。

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