とにかくアリスちゃんに関しては、劇団のやり方に一切納得していません。
ときの運、ひとの運、娘役にはそれがつきまとうとはいえ。

彼女を娘1にできなかった劇団を、馬鹿だと思う。

ファニーという役も、なぜ?と思うんです。
「夫が家に帰りたくなくなるような妻」とか、最後にさせないでよ。

とは思うものの、そこがアリスのすごさで、持っていっちゃったから。
この話のネルソンとエマの恋愛に(あくまでも脚本上の)説得力が全然ない上に、エマが嫌な女すぎる!(あくまでも脚本上で)
そしてアリスが(あくまでもアリスが)あまりにもいい女で、ゆえに観客側はファニーに肩入れしてしまう。
ファニーが嫌な女の部分は脚本上で端折られてるっちゃ端折られてるわけですが、おかげで私たちはただただこの美貌の妻の悲劇に涙する、というすごい仕組みになってます。

なんでこんなに美しい人を家に残して、ネルソンは……?分かんないっっ!!(としか言いようがない)

天性の美しさ可愛さ華やかさに加えて、退団者オーラで圧倒的に輝くアリスちゃん。
千秋楽は、ほんとうにほんとうに壮絶に美しかった。あれはもう言葉でなど言いあらわせない。

アリスちゃんは納得して卒業していったはずですが……ああもったいないもったいない。


「忘れられない人」を歌う顔がせつなくてね。せつなくてね。せつねくてね。
「ジョサイアを守ってくれてありがとう」とネルソンに言う顔が、泣きだしそうな子どものように愛らしく、でも母として天女のようでね。
「ネルソンの名を捨てるつもりはありません」と毅然と宣言する顔が、凛と美しくてね。
そのあとジョサイアに向ける眼差しが、優しくてね。

私、ずっと泣いてた。

その涙はアリスになのか、ファニーになのか、もう分からない。
いや、多分その両方に、私は泣かされていた。


観客側をここまでファニーに肩入れさせた要因のひとつに、このジョサイアの存在があったと思います。
愛ちゃんに、ではないと思うんだけど、サイトーくんがジョサイアという設定に萌すぎてしまった結果、すんごい突出して観客の萌を背負う形となってしまったジョサイア。
(これタカラヅカとしては、愛ちゃんと他の生徒と考えたときに正直バランス悪かったとは思うんだけど、また別に……書けたら?)
ファニーとジョサイア、こんないたいけな2人に勝手の限りを尽くすネルソン、みたいなことになってしまったという。

愛ちゃんは、こんな大役ははじめて。今まで本公演の台詞が「あの女はやめておけ!」の一言だけだった人です。
大劇の最初はなーんにもできてなかった。そりゃそーだ。
1週間経ったぐらいのとき、「あ、父に対しても母に対しても、感情が前に出てきてる」と。でも、そのときはまだまだ感情が昂ぶるとオンナノコになっちゃうなあと。
東宝ではオンナノコが抜けて、どんどんいい男になっていくな、若いってすごいな(笑)って思ってたんだけど。

千秋楽。最後の場面、アリスに向ける顔がオンナノコだった。愛ちゃんだった。
若いって……こういう場合、ほんとまっすぐに作用するんだね。
ジョサイアは、いや愛ちゃんは、ただもうアリスちゃんとのお別れに泣くオンナノコだった。愛ちゃんだった。

でも大丈夫。すーっと一筋の涙を流し、その惜別の感情を振り切り、クっと目線を上げ敬礼し去る姿は、しっかりジョサイアだったから。


ジョサイアとともに、私もたくさん涙を流してきました。

悲劇の妻であり天女のような母、美貌のファニーに。

そして花影アリスという、ヒロインになるべくして宝塚に存在した娘役でありながら、でも今去りゆくあなたと別れなければならない、その哀しみに。

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