いまごろ鯉助のはなし@春風弥里お茶会、ではないけど。
2012年7月19日 花組バウ・DC・青年館(だからいまごろ……)
らんすいえんの店長さん日記はこちらhttp://ameblo.jp/ransuien/entry-11250379542.html
『近松・恋の道行』ムラのみーちゃん茶より。
「ラストの高笑いに籠められた意味を教えてください」
その中での質問のひとつです。
わたしはあの高笑いで、鯉助が己の弱さを越えた、越えることができる人に変わった、と思ってたんですよね。
「生きることも死ぬこともできない……」
いやとんでもないダメ男なわけです、鯉助って。
とにかく初日に観たときいちばんツボったのが「この人、改心しないんだ」という部分(笑)。
一幕でその放蕩っぷりを見せつけ…というか、自分の弱さから逃げるだけ逃げて、あげく人殺しの一歩手前までいっちゃう鯉助さん。
ふつう、ここで人は気付くだろう。
自分の弱さと向き合うだろう。真剣に生きてみようと、その心を入れ替えるだろう。
というか、「物語」ってそういうものでしょう。
鯉助は、ほぼ最後まで変わらないのです。
あれ?(笑)
あ、彼はヒーローじゃないからだ。
やっと分かった。
ここで改心して真剣に生きるのは、物語に於けるヒーロのお仕事です。
鯉助はある種、「凡庸」の見本だから。 凡庸担だから。
人間の多くは、弱い部分を背負って生きているものだと思います。もちろんそうではない人もいるのでしょうが、そうである人のほうが圧倒的に多いのではないかと。
がんばりたくてもがんばらない。がんばれない。
それによって、自分の足りなさを認めてしまうことになるから。
自分の弱さを見つめることが怖い。一生懸命生きても結果が出なければ、それでお終い。
だけど、そこから逃げ続けていれば、人は(あくまでも一見)楽に生きられるわけです。
それが凡庸、ということなのかもしれません。
鯉助に対して多くの人の「共感を得る」という言葉が挙がったのは、その生き方のどこかしらが自分とリンクするという観客それぞれの思いがあったからではないでしょうか。
人間は、やはり弱い。
もちろん鯉助と我々では背負っているものも違えば、あそこまで逃げ続けている人もまた一般にはなかなかいないわけで(笑)(むしろ大変)
それでもどこかしらに一般の観客の共感を得るのが、絵に描いたような凡庸さ(むしろダメ人間すぎて一般人には難しい、まさに「絵に描かれた」凡庸…「凡庸」という記号)を持つ鯉助なのではないかと。
ただ、鯉助が凡庸だけに終わらないのは、この高笑いだとわたしは思ったのです。
追い詰められて、最後に見せる顔。自分との対峙。
越えることができるかもしれない。自分の限界…と暗に認めていた部分を。
この、鯉助という男は。
凡庸な男が、ヒーローに変わる瞬間なのだと。
そこで物語は終わっちゃいますが(笑)。
だからこの質問の答えに興味がありました。
みーちゃん自身はどんな思いで、あの声を発しているのか。
「うーーーん……本気で生きている人がいて、でも自分は逃げていて、お父さんに頼っていて、うーん……自分でも弱さを分かってるんですけど、本気で生きている人を見てガーン!ってなって、うーーーーーん……でもそのあとも『鬼さんこちら』とか言って遊んでて、うーん、、、、、、」
えっ最初から?(笑)
そこだけ、ずばっと言うとかじゃなく??
おもしろいなあ、と。
言語化できない複雑な心情が絡み合っている、というのもあるのだと思いますが、つまりは言語ではない本能の部分で演じているのではないかと、わたしは感じました。
綿密な計算での芝居というよりは、本能の部分。
鯉助の持つ弱さもなにもかも最初から、言語化はせずに、そして最後の高笑いまで行き着く。
そもそも「凡庸」な人間は、こんな場所@TAKARAZUKA、にはいない(笑)。
心情を組み立てようとしても、ご本人の中では本質的に理解できないところがあるのかもしれない。凡庸さ、というものが。
それを越えらるのは、演者としての「本能」の部分ではないのかと。
人殺しの役だからといって、人を殺してくる必要はない。よくよく言われることではありますが、人殺しの心情にたどり着けばいいわけです。
それでも人殺しの気持ちに、本質的には分からない部分があるとしたら。
これはもう綿密に計算して形で創りあげるか、本能でそこに飛ぶか、どちらかなのだとしたら。
みーちゃんは本能で飛んでいく人なのではないかと。
いやだからみーちゃん自身はほんとうは綿密な計算をした上で芝居しているのであって、単にそれを言語化できない、しないだけなのかもしれませんが。
ほんとに(言語としては)分かってないっぽかったから(え)。
それであの芝居ができるって、すごくない?
そして、最後に行き着く高笑い。そこで越える、弱き己。
他に、「まっすぐに生きる」のはどういうことかをすごく考えた、というようなこともお話しされていました。
まずはまっすぐが何かということを分かっていなければ、歪めないから。
なるほど……。
ところで鯉助さんですが、青年館でこの高笑いが全く変わってしまったのです。
え。
鯉助、最後の最後までダメダメ←
これはこれではるかぜさんてすごい役者だと思った、その話は(書ければ←)続く……。
らんすいえんの店長さん日記はこちらhttp://ameblo.jp/ransuien/entry-11250379542.html
『近松・恋の道行』ムラのみーちゃん茶より。
「ラストの高笑いに籠められた意味を教えてください」
その中での質問のひとつです。
わたしはあの高笑いで、鯉助が己の弱さを越えた、越えることができる人に変わった、と思ってたんですよね。
「生きることも死ぬこともできない……」
いやとんでもないダメ男なわけです、鯉助って。
とにかく初日に観たときいちばんツボったのが「この人、改心しないんだ」という部分(笑)。
一幕でその放蕩っぷりを見せつけ…というか、自分の弱さから逃げるだけ逃げて、あげく人殺しの一歩手前までいっちゃう鯉助さん。
ふつう、ここで人は気付くだろう。
自分の弱さと向き合うだろう。真剣に生きてみようと、その心を入れ替えるだろう。
というか、「物語」ってそういうものでしょう。
鯉助は、ほぼ最後まで変わらないのです。
あれ?(笑)
あ、彼はヒーローじゃないからだ。
やっと分かった。
ここで改心して真剣に生きるのは、物語に於けるヒーロのお仕事です。
鯉助はある種、「凡庸」の見本だから。 凡庸担だから。
人間の多くは、弱い部分を背負って生きているものだと思います。もちろんそうではない人もいるのでしょうが、そうである人のほうが圧倒的に多いのではないかと。
がんばりたくてもがんばらない。がんばれない。
それによって、自分の足りなさを認めてしまうことになるから。
自分の弱さを見つめることが怖い。一生懸命生きても結果が出なければ、それでお終い。
だけど、そこから逃げ続けていれば、人は(あくまでも一見)楽に生きられるわけです。
それが凡庸、ということなのかもしれません。
鯉助に対して多くの人の「共感を得る」という言葉が挙がったのは、その生き方のどこかしらが自分とリンクするという観客それぞれの思いがあったからではないでしょうか。
人間は、やはり弱い。
もちろん鯉助と我々では背負っているものも違えば、あそこまで逃げ続けている人もまた一般にはなかなかいないわけで(笑)(むしろ大変)
それでもどこかしらに一般の観客の共感を得るのが、絵に描いたような凡庸さ(むしろダメ人間すぎて一般人には難しい、まさに「絵に描かれた」凡庸…「凡庸」という記号)を持つ鯉助なのではないかと。
ただ、鯉助が凡庸だけに終わらないのは、この高笑いだとわたしは思ったのです。
追い詰められて、最後に見せる顔。自分との対峙。
越えることができるかもしれない。自分の限界…と暗に認めていた部分を。
この、鯉助という男は。
凡庸な男が、ヒーローに変わる瞬間なのだと。
そこで物語は終わっちゃいますが(笑)。
だからこの質問の答えに興味がありました。
みーちゃん自身はどんな思いで、あの声を発しているのか。
「うーーーん……本気で生きている人がいて、でも自分は逃げていて、お父さんに頼っていて、うーん……自分でも弱さを分かってるんですけど、本気で生きている人を見てガーン!ってなって、うーーーーーん……でもそのあとも『鬼さんこちら』とか言って遊んでて、うーん、、、、、、」
えっ最初から?(笑)
そこだけ、ずばっと言うとかじゃなく??
おもしろいなあ、と。
言語化できない複雑な心情が絡み合っている、というのもあるのだと思いますが、つまりは言語ではない本能の部分で演じているのではないかと、わたしは感じました。
綿密な計算での芝居というよりは、本能の部分。
鯉助の持つ弱さもなにもかも最初から、言語化はせずに、そして最後の高笑いまで行き着く。
そもそも「凡庸」な人間は、こんな場所@TAKARAZUKA、にはいない(笑)。
心情を組み立てようとしても、ご本人の中では本質的に理解できないところがあるのかもしれない。凡庸さ、というものが。
それを越えらるのは、演者としての「本能」の部分ではないのかと。
人殺しの役だからといって、人を殺してくる必要はない。よくよく言われることではありますが、人殺しの心情にたどり着けばいいわけです。
それでも人殺しの気持ちに、本質的には分からない部分があるとしたら。
これはもう綿密に計算して形で創りあげるか、本能でそこに飛ぶか、どちらかなのだとしたら。
みーちゃんは本能で飛んでいく人なのではないかと。
いやだからみーちゃん自身はほんとうは綿密な計算をした上で芝居しているのであって、単にそれを言語化できない、しないだけなのかもしれませんが。
ほんとに(言語としては)分かってないっぽかったから(え)。
それであの芝居ができるって、すごくない?
そして、最後に行き着く高笑い。そこで越える、弱き己。
他に、「まっすぐに生きる」のはどういうことかをすごく考えた、というようなこともお話しされていました。
まずはまっすぐが何かということを分かっていなければ、歪めないから。
なるほど……。
ところで鯉助さんですが、青年館でこの高笑いが全く変わってしまったのです。
え。
鯉助、最後の最後までダメダメ←
これはこれではるかぜさんてすごい役者だと思った、その話は(書ければ←)続く……。
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